人が神の言葉に手を加えて神の顔=真実を覆い隠した | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の記述の中には矛盾があるとか、辻褄が合わないことが

あるとか、そんなことを聞いた事があると思いますが、理由は

はっきりしています。人間が神の言葉に付け足し、削除すれば

辻褄合わない記述があって当然だからです。真実からずれる。

 

でもオリジナルが神の絶対的権威、支配、業によりちゃんと

保存されているのです。誰も触れる事が出来ない。

ヘブライ語で書かれたオリジナル言語の聖書。創世記から

黙示録まで、神の言葉は矛盾、変化、変更がどこにも無い。

 

神の言葉を無視し、永遠普遍である神の言葉に、一点一画も

付け足し、削除するなかれと言われた神の言葉を退けて、

自分が神の座に座って神の言葉に手を加えた、加える、

加え続ける。神に変わって、神の世界を塗り替えた解説を

する。神の言葉が変わった、変化したと思わせるような

工作をしてしまったのです。

 

世界で疑いなく信じられている”イエシュアの公生涯”が

三年半であると言う事、これも事実とは異なる単なる仮説。

エウセビオスと言う4世紀のカトリック ギリシャ教父,

聖書コメンテーター、歴史家である人が勝手に考えついた

ものです。トラーを知らなかったと言う事は明らかです。

 

家系図で”イエシュアの母”ミリアムの下りを、翻訳聖書=

ギリシャ語の翻訳の中で途中から削除されてしまった事と

同じです。

オリジナルに戻って確認出来る事が今の時代になって

やっと可能になった事も、神の時の支配だと思うのです。

真実が明るみに出る。神の言葉の永遠普遍の真実を

神が証明するからです。

 

福音書の4つの中の記載は全て、お互いに矛盾したことが

書かれていないことは、オリジナル言語、ヘブライ語の元に

戻ると確認できるのです。

また、聖書の創世記から黙示録までもどこも変化なし、

矛盾無しなのです。

 

そして、ヨハネの福音書の6章4節の下りも後から付け足された

ものである証拠がちゃんとあるのです。ある時期から、

改ざんされた証拠がちゃんと出てきたからです。

しかも、1世紀の歴史学者、異邦人の教父たちでさえ、

公生涯は1年だったと1世紀当時は皆認識していた、

知っていた事が記されているのです。

 

そして、聖書は二つの別の福音、別の契約が出現したのだと

言う教えもそれと同じです。

マルキオンと言う人の仮説です。彼は聖書が丸ごと同じである

と信じられない時の異端者だったのです。このマルキオンの

思索だけが残ってしまい、その結果旧約新訳と言う二つの

ページが勝手に聖書に挿入されてしまったのです。

残念なことです。こんな紛らわしいものを挿入すれば、

神の言葉に対する間違ったイメージを与えてしまう。

人に、神の言葉が変化したと言う、誤解の概念を植え

付ける原因でもあるのです。

 

ルカといくつかのパウロの書簡さえ読めば、それで事足りる

と言う教えも、異端者マルキオンの勧め、教えです。

だから、聖書を安易に途中から読むように教えられて

しまうのです。

プラス、聖書を最初から言語に書かれていること、内容を

紐解き、教えることが出来る、ヘブライ人達を

封じ込めたのです。そしてヘブライ語のトラーやその他の聖書

もたくさん没収、火にくべた。証拠隠滅です。

 

進化論や地動説などと全く同じです。ビッグバンに至るまで

これらの科学の仮説はワンセット、同じです。

その根底にある思想は、反創造主、反イスラエルの神です。

 

500年前までは、誰もそんな仮説など語らない。信じもしない。

想像にも浮かばない時代があったのです。ある時誰かの発想で

編み出された教えただのの人の空想=仮説があたかも真実だと

されてしまい、今度は全世界を駆け巡り、疑いもなく信じ

られて行ってしまうと言う事が、歴史の中でたくさん起きて

いるのです。不注意に人の教えを受け取り、周りが皆信じる

から、学校で教えられるから信じているだけです。

 

神の記念日=レビ記23章にある記念日は永遠に変わらないし、

そして、1世紀の時代の記録=聖書に記録されていることは、

聖書に書かれたのみだけの、神の記念日なのです。

4世紀以降、聖書が閉じられた以降に造られた、

人の作り出した、創作記念日など、聖書の中に書かれていない

存在しないからです。

 

そして、その神の記念日の日程、内容、どの場所で行われる

のかを知れば、大事な箇所が削除、又は付け足された事に

より、記述されている出来事の場所=ロケーションが、

辻褄が合わない、変であることに気がつけるのです。

 

そして、公生涯の日数もクリアーに計算できるのですが、

途中で記念日を挿入されてしまうと、計算が狂って

しまう事が起きるのです。

 

この内容は、前後左右の記述と4つの福音書を見れば

正確な記述でぴったり合うのです。

誰かの意図で、途中で挿入された箇所、削除された箇所、

こんな事を何故してはならないか?神の言葉の真実が

見えなくなってしまうからです。

 

人間の書いた書でも同じ事です。

誰かが、オリジナルの原書に手を加えてしまえば、

元々書かれた内容、真相は闇の中に入ってしまいます。

オリジナルとは違う事を伝えてしまうのです。

 

イエシュアの公生涯は、実際は1年位の長さです。なぜなら、

神の記念日、過越から仮庵の祭りを3度=3年間に渡り、

繰り返した記録ではなく、それぞれ一年の中にある、春と

秋の祭りの記録を巡っての出来事が書かれているのです。

そして、その全てはエルサレムでの出来事です。

 

たった一度だけ=神の記念日を巡る事の記録だからです。

神の記念日に、神は必ず重要なことをしていることを知れば

納得いきます。神の時=モアデイムに救い主が現れて、

神の福音の業をした。

 

そして、神の時に神は福音の中心の重要なことをされている

ことを知れば、分かることだからです。

 

そして、今週出エジプトの18章以降の箇所を読んで

いますが、この出エジプトする前の、パラオへの

脱出懇願と、10の災いが起きた期間がたったの

数日の様な感じで受け取られていますが、

実は1年近くの長い日々に渡っているのです。

 

この1年とは、ヘブライの世界での婚約期間にも匹敵

する期間です。とても意味があるのです。

聖書の真実は本当に全部マッチしています。

そして、救い主が来られる準備期間。

シャバットから始まる、そして1年の祭りがあり、

その祭りの最後が仮庵です。

 

この中に、再臨の救い主を迎える教えがちゃんと

実体験で入っているのです。

子羊の婚姻、婚礼の宴会。

古代イスラエルの世界、婚約、結婚準備期間は

1年にも渡るものです。全部繋がっています。

 

続く