グレゴリアン暦ですが、2018年から2019年になりました。
3年ぶりに日本で新年を迎えているので、オンタイム、
同時間に日本国内からのラインでの挨拶が入って来ました。
イスラエルや海外からもメッセージも画像付きでたくさん。
そして、電話もかかって来ました。
こちらが夕暮れの時にしばらく話しました。
それぞれの発見、近況報告。
そしてイスラエルのコミュニテイのニューイヤーイブ。
一人一人色々な事件が起こります。
想定以外、予測以外の事はそれぞれあるもので、避けられない。
1秒先の事を予測する能力など与えられていないのだから、
”自分のさとりに頼ることなどできない。一年後、3年後、
10年後、20年後の事なんて、予測出来る人など誰も居ない
のです。
オリジナルのヘブライ語聖書に戻ると、そこに書いてある世界
は”神御自身が定義”する世界です。
人が何も勝手に定義できる余地がない世界が書かれています。
一ミリとも勝手に人間の解釈を付け足せない世界が
書かれている。
霊的バトルとは、神が語られた言葉と、そうでは無い偽物の
狭間で人が騙されるか、それとも神の言葉に密着し続けるのか
全くそれなのです。
神の定義する、トーヴ=神の意図通りと、ラー=神の意図から
外れているとは何?それは、トラーの内容に真摯に、書いて
ある通りに読み、真実をたぐり寄せることがなければ、
分からない世界なのです。
知らなくても分かる?霊に導かれたら分かる?
神の語られる言葉を知らなければ、何の霊に導かれているのか
すら分からないのです。世の中、偽の霊、偽預言者、
偽教師、偽の教えで満載なのですから、何を根拠に本物と
偽物を見分けるのでしょう?神の言葉以外に無いのです。
神の似姿に造られた。その人は、エデンの園の中では
神と顔と顔を合わせて対話出来る関係だった。
それなのに、そこに幕がかかった状態になってしまった。
ある動画を見ていて、人は”努力”しなくても神の世界を
見ることが出来る状態だったのではないか?と考えさせ
られるものがありました。
努力して計算しなくても、数字の内容がどこまでも見える世界
特殊能力を持った?と言われる人が語っています。
1週間にして複雑な外国語を習得できる能力。つまり、神の見て
いる通りを、人が見ることが出来る状態がエデンではあったは
ずなのです。
もちろん、人は神では無いですが。神の似姿、神のように思索
出来る能力が人間には与えられている。
だから、脳のほんの一部しか使っていないと言うことも合点が
行く内容だと思います。
世界は、騙される世界か、又は神の言葉通りをキャッチして
生きる世界か、別れているのです。
それには、神が何を言われているのかをまず知らなければ、
神の語られる世界は分かるはずは無いと言うことは、誰でも
理解できるはずのことです。
嘘を食べ続けて生きるのか?それとも、神の言葉を聞き続け
信じ切って生きていくのか。
世界は神の言葉の70%は古い律法で、神の言葉は終わったと
教えています。
人の作り出す教えで、誤解が誤解を呼ぶ世界が生み出される
のです。
神の言葉のどの部分でも終わった教えとするなら、預言者、
エレミヤ、イザヤ、マラキ全ての預言者は皆嘘つきになって
しまうのです。
イエシュアも使徒も嘘つきになってしまう。
なぜなら、彼らの語っている内容の全ては合致していて100%
トラーに戻れ!と言う警告以外何ものでも無いことが
聖書をちゃんと読めば書かれているからです。
先入観を持ちながら、福音書以降は別の教えと思いながら、
2000年以降は別の契約が出現したと言う教えを元にするなら、
真実は本当に闇の中、イエシュア=肉体を取って来られたお方
が、一体何を語られているのか見えて来ないと言うことに
なってしまうのです。
聖書を読む前提がずれていると考えた方が早いです。
人の教えを土台に読んでいる。
イエシュアが只唯一の贖いを達成するために、木に掛けられ
て亡くなり、昇天したから、今までの神殿での一連の捧げ物、
神の家=神殿が存在する意味は無くなったとする教え。
でもその教えの前提が全くずれています。
今度イエシュアが戻られた暁には、神の家でイエシュア御自身
が神の祭り=仮庵の祭りを行うことが書かれています。
1つは、それが真実ならば、なぜパウロや使徒が昇天以降も
神の宮でレビ記23章にある記念日だけを祝い、なぜクリスマス
やイースターなる祭りを祝わなかったのか?
なぜ、パウロが”ナジル人”の誓いを神殿で行い、コバーン=
きよい動物の捧げものをしたのか?
なぜ、パウロや使徒たちは、トラーの中身100%を教えて
いたのか?なぜ彼らは、トラーのライフスタイルを変わらずに
生きていたのか?汚れた動物も一切食べない。
不思議に思ってぜひ考えたら見えてくると思います。なぜ?
なぜ?なぜだろう?トラーの全ては、イエシュアが昇天した
後は一切無意味になったとどうして教えられているのだろう?
聖書に書かれていることと、私たちが信じている内容に
ずれ、ギャップがあるのです。
そうです。もともと神の家でのコバーンの捧げ物は罪を
仮に許されるためにやっているのでは無いからです。
トラーに書かれたライフスタイルを生きるのは、義とされる
ために生きるのでは無いからです。義とされた人が生きる全て
が、トラーに書かれている。その点がずれている、
ぼやけているのです。
たくさんの誤解の前提=トラーを知ら無いまま読めば分かる
ものも分からないだけです。
もっと簡単に言えば、イエシュアが昇天して罪赦されたから、
人を傷つけても謝らなくても良いとでも言うのでしょうか?
人に損害を与えたら、傷つけたらそれなりの、修復の仕方が
あると普通なら、常識がある人なら分かるはずです。
神の家の中で教えられていた事は、その修復をいかにするか?
神の意図通りにする事の全ての詳細を教えられていたのです。
一連の儀式で。
大事な自分のペットを、もし自分の手で、自分のずれのために
屠らなければならないとしたら、どう感じますか?
ショッキングでしょう。
もう、二度とそんなずれをしたく無いと心に刻み、誓うと
思います。簡単にずれない。すごいインパクトがあるはずです。
それを実際にやったら、分かるのです。
自分のずれが、ひずみが周りにどんな代価をもたらすのか?
それらをひっくりめて、広範囲に色々な事を実体験する事、
又、新しくされている人である事実の確認を神の家の中で
はっきりと体験できる一連の儀式が”神の家の中での
体験学習なのです。
はっきり書いてあります。動物の血は罪を消さないと。
それだけで、十分分かりえる事なのに、過去は動物の血で
罪が一時期消えたと言う教えにすり替わっているのです。
同じ救い、贖いは永遠の中にあります。同じ実態、同じ内容
なのです。そう書いてあります。太古から語られた同じ福音、
別の福音など無いと書かれているのです。そして、神の業は
罪の許しと言う狭い狭い世界の話だけでは無いのです。
もっともっと広い広範囲の、神の創造物全体の修復でも
あるからです。