もともと古代ヘブライの世界には誕生日を祝う習慣がありま
せんでした。
そして、クリスマスと言うのは、福音書以降の聖書の中での
記録の中でも、誰かがその日を”クリスマス”と言う言葉で、
そして救い主の誕生日として、12月25日を祝わっていた
記録はゼロです。それは、事実に基づいて12月25日は
救い主の誕生日ではない、プラス、誕生日を祝うような
習慣、または”神から命じられている仰せ”が聖書に
無いからであると言うのが単刀直入な事実なのです。
もちろん、馬小屋で生まれた”救い主”を訪ねて来た人達の
記録は書かれています。
そして、その日がいつであるのかは、”書かれていないことが
事実です。
でも、”星”と言うヒントが書かれています。どの時期に出る
なんと言う名が名付けられている”星”なのか、手がかりがある。
聖書全体の中で、他の人が誕生日をしている記録はたった
三箇所、ファラオと、ヘロデの記事のみです。
創世記40:20 マタイ14:6 マルコ6:21
私は、”世界で初めのクリスマス”と言う歌を小さい頃
歌った記憶があります。
救い主がこの地上に来られたことは事実です。
でも、来られた時期が違うのです。冬では無い事は聖書の
記録でも分かります。そして神は重要な事を、必ず神の時に
沿って行っています。モアデイムです。
初臨、再臨もそして、義とされている事実、新しい命への
復活も全て神の記念日の中で、祝うように、神が始めから
デザインされていることを知ってから、”?”と考えるように
なりました。人が神の言葉、神のデザインに手を付ける事は、
神ご自身が人に対して、はっきりと禁じられていてるのです。
私は誰の教えに聞き入って、それが真実だと何を
根拠に信じていたのだろう?と。
神は、私たちに”真実だけを語りなさい”と言われている
のだから、ましてや神の言葉に対して偽証する事や、不真実
と知りながら、偽証続けることはもちろん、禁じられている
からできない。知らない場合は仕方ながない。でも事実では
ない事を、あたかも事実の様に語る事をすることに、違和感
が無いのは危険状態なのです。
一番厄介で分かりにくいのは、混ぜ物の教えです。
どこからどこまでが嘘なのか、真実なのか見分けられない。
半分真実、半分嘘。エデンの園で地を這うものがやった
事と全く同等な性質。半分本当、半分嘘=<救い主は、
誕生した=真実、でも時期が違う=不真実。
神の仰せでは無い。プラスその祝いの背景、土台は、異教徒の
祭り。異教の神々の誕生日がはじめに在りき>を言ってアダム
とエバを騙しの世界に引き落として死を世界中の人々、世界中
の創造物の中に取り込んでしまった。
神の言う事と、異なることを取り入れてはならない、
人に不真実をあたかも真実のごとくに伝えてはならないのです。
私は神の作られた記念日を、神が祝いなさいと言われた
記念日を神の言われた日にその通りに祝いたい。
神の記念日=レビ記23章は永遠の印、永遠普遍。
イエシュアが地上で、家族と弟子達とされて居たのと
そっくりそのまま同じ通りに。エルサレムに行けなくても、
異教の地でも、本質、中身を同じ様に祝う。
1世紀の”カハール” ”エクレシア”=神に呼び出された人々の
群れは、クリスマスなる言葉も知らなければ、その祭りを
祝ってもいませんでした。
2世紀でさえも、その様な祭りを祝いを祝っていませんでした。
アレスサンドリアの教父 クレメントが5つの”仮想””推定”の
キリストの誕生日を提案しました。紀元後150年の事です。
西洋宗教の暦で”エピファニー”として知られる日、マギが
救い主を訪問した日が、1月6日として、それが伝統として
世界に受け入れられて今日に至っているのです。
<全部人の編み出した、仮の設定した日です。>
エピファニーとは英語です。エピファニア=”現れ”と言う、
公現祭として4世紀以降造られた祭りです。
その様な名も、その名で祝う祝いは、聖書の中に書いてない
のです。
日にちが定かでは無い、聖書の中に記述の無い祭りがどうして
4世紀以降12月25日がメインとして定着したのか?
この背景には色々ありますが、1つ”ヘブライ語聖書=トラー”
を知らない、教えられていない、多くの異邦人達により、
たくさんの重たいくらい大量な異教の神々、異教徒の習わし
風習、シンボル、異教の儀式が取り込まれてしまった事が
一大要因であるのです。混ぜ物はだめ=高き所=ヤロベアムの
罪は完全アウト、排除と言う意識が全く無い。トラーを知ら
ない、学ばない、聞いた事もないからです。神が何を警告して
いるのか、その下知識が無いからです。イスラエルの神に似て
れば、異教の神々のものを、イスラエルの神に繋げて、関連
させて、取り入れ、便乗して、混ぜても良いと考える=高き
ところを設置するのが異教の神々の異教徒の習わし、性質、
ヤロベアムの罪と聖書に書かれています。
この事は、12月25日がキリストの誕生日であると決められて
しまったことと、合致、一致していることでもあるのです。
ヤロベアム王のやった事と重ねると分かります。
イスラエルの神の家の祭り=記念日を、神が定めた月、第七の
次の月の、でも同じ15日に設定し直し、神の定めた場所では
無い、自分の作った高き所で、神に反して勝手に捧げ物をする。
似ていても、神に属さない重大な罪と神が警告しています。
それは神の言われた通りとは、異なる代物=偽物だからです。
神の言われた事に付け足し、削除、変更するなかれを、
自分の造った教えで塗り替える。
1列王記12:33 こうして彼はベテルに造った祭壇に
ジュリアス シーザーのカレンダーでは12月は冬至の季節
です。”豊潤、多産の神が地上の一番低い所に降りて来る。
そして、再びそこから登り出す。大いなる力と素晴らしさを
率いて。
これを、ローマの間では、”ブルマリア”として知られている”
”クリスマスの伝統” William Muir Auld
(Macmillan 1931)28ページ
ローマ帝国の世界において、神の様な力、いや神と同等の位を
持つ”皇帝”であると認めさせること、その位置を定着させる
ことに、皇帝は躍起になっていたのです。
神から遣わされたものだから、神と同等の権威を与えられて
いると、人々に思わせる、
リーダーに絶対服従と言う図式を強いる事が出来るのは、
どの世界にもあるのです。神からのリーダー、皇帝の言う事に
逆らわないと言う意識が人々の中に浸透すれば、市民を
コントロールしやすいからです。独裁者、そして無秩序=無法
=トラー無しの世界です。
これは、ローマ皇帝コンスタンチヌスの策略にも繋がって
います。政治は宗教を利用して人々を扇動するものです。
古代ローマでは、当時太陽神信仰が盛んでした。その大元は
エジプトの太陽神、ラーです。これとの対決が、出エジプト前
に在った10の災いなのです。10の神々=10の言葉=トラーに
背く教えの神々への裁きです。神の裁きが齎すものは、
人々が偽の神々、偽の自己像に生きる縛り付けからの救出、
デリヴァランスです。
ラーとイスラエルの神。ラー=サタンの大御所です。
異教の神々は一つのヒモで全部括られることが出来ます。
その教えの違い、名前の違いあれど、その背後はサタン=
その礼拝のコンセプトは、全く同じ要素を共有しています。
偶像礼拝=自分の努力、行い、業で義とされる、神に近く。
律法主義とも重なります。義とされるために、神の言葉を
生きる。目的がずれている。
神にお伺いをたて、必死で懇願、必死で懺悔して自分の
欲しいもの=財産、多産を手に入れる。
皆同じコンセプトです。これを聖書で偶像礼拝と呼ぶのです。
神々の名に違いあれど、その裏にある”神々”=霊の出どころは
全く1つです。サタンです。
アポロ、ラー、アイシス、アシェラ、アシラ、タンムズ、
聖母子像=これも人が作った異教の神々、女神の偶像ですが、
その裏には、元の神々であるエストロ、マドンナ、ダイアナ、
イシス、イシュタール、イースター皆同じ、名前は
違えど同種の異教の神々、女神々なのです。
続く