聖書に無い言葉で表される歴史の途中から出現したもの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

たとえ嘘でも、似てれば良いさ、コピー、紛い物でも?

最終的に人にイエスさまが伝われば良い?でも、それでは

聖書に書かれている本当の神の実像とは違う、似て非なる

神を人に伝えてしまうことをしているのです。違うお面を

被ったイエシュアを伝えてしまう。

 

自分に関しても、自分とは無関係なことを人に噂されたら

それは断固拒絶したいと思うのでは無いでしょうか?

そんな事私は言ってないのに、そう言ったと言われて

しまっていると言う理不尽を体験したことがあるなら

分かる世界です。

 

真実を語る事は、必要な事なのです。でもむやみやたらに

語ること=今の言葉で言うところの空気読まない、いやもっと

掘り下げると、神の指示なく自分勝手に、しかも人間の編み出

した神の言葉とは異なるあれこれの教えを勝手に言う、

語るのはロー トーヴです。批判ではないのです。

神がしてはならないと言われた事はしてはならないからです。

真実が語られる事は絶対に必要な事なのです。

 

そして、正しい情報を元に、一人一人、自分で考えれば

良いのです。その情報が嘘か真実か一人一人が調べ、

吟味し、深く思索する必要があるのです。

 

その大元の問題は、”正しい情報”に触れていないかもしれない

と気がつく事です。一方的な教えが蔓延している中、

今や逆流の流れがあります。神の言葉のオリジナルに戻る。

太古=永遠から語り継がれた同じ福音を再び聞くときが

来た。

 

誰かの流す情報を聞いて、それが嘘だ!と思うならとことん

嘘である事の根拠を、事実にだけ基づいて掴むまで、

しっかりくまなく調べてみれば良いのです。

それをほとんどの場合していないのだと思います。

聞いたことをそのまま鵜呑みに信じる。

そして、正しい情報を発掘しないとならない。神が何と

言われているのかだけを根拠にして考える。

 

誰かの考え、教えを変えようとか、この様にしなくてはと

言う事は、人に強要することは誰も出来ないのです。

してはならない。でも、正しい情報を聞く、知る人は

正しい情報を伝える必要がある。

世界に反乱する情報、その中で神の言葉に基づいた真実な

情報にアクセスする必要がある。そうでなければ、神の言葉

とは異なる教えを、神の言葉を根拠とする真実であると

信じこんでいるだけなのかもしれないからです。

 

そして、その内容を調べた人達が、それぞれ自分はどう

生きるのか?の選択をする自由があるのです。

それは個人、一人一人と神との間の対話、相談、決断で

あるべきなのです。誰かの一方的な教えを、調べもしないで

信じ込まされる事はやめないとならない。危機感感じた方が

良いのです。

 

誰かの教えを押し付けられ、強制されて、考えると言うことも、

やめないとならないのです。神に造られた人は神の真実の中=

生ける水の中にしか存在出来ないからです。成人は自分で

しっかり神の言葉を読んで神の前に考えて、神の意図通りを

生きる選択をする。それだけだと思います。

 

これから書くこと全て、以前の記事も含めて、誰かを批判する

目的ではなく、事実だけに目を開いて、正直に自分で考える

チャンスが必要であると信じているので、書きたいと思います。

 

今や、世界の多くの人々の中には、12月25日はキリストの

誕生日ではないのだと明らかに知る人が大勢います。

しかも、東方教会では、誕生日が1月の6日と言うことに

なっています。2回も誕生日なんてあるわけないです。

どうして?正しい情報にアクセスして、それが事実ではないと

事実を元に調査、確認済みだからです。なぜなら、イエシュア

が誕生した日は、聖書に書かれてないからです。そして12月で

あるなんて100%あり得ないことだからです。

 

クリスマスやイースターと言う言葉を聞いて、これらの言葉が

ヘブライ語ではないと気が付いてみると分かります。

 

ヘブライ語では無いなら、ではこれらの言葉はどこから来た

ものなのか?誰かの造語?又は、別の宗教から来たもの?

私たちが聖書的であると考えてやっていることが、シンボル、

行事が、実は聖書的=神の仰せではないこと、いやもっと

複雑なのは、別の宗教の神々の名や風習、しきたり、シンボル

偶像が混ざりこんでいることが、たくさんあると言う

事実があるのです。

 

偶像、混ぜ物、紛い物に満ちた家は、イスラエルの神の家の

姿とは違います。

こんなのは解りやすいですが。完全に偶像と異教の偶像の

混ぜ合いだから。見た目にも分かる。

 

イスラエルの神に関連する偶像を作り出そうと言う発想をした、

その土台は”異教の神々”の教えを土台としているのです。

神の言葉を変えてしまった、紛い物の宗教の創設者の元の

信仰の土台があるからなのです。

 

神は、異教の神々の世界と聖別する事をとても強調しています。

どうしてなのか?それは、混ざれば不純物になって

しまうからです。

ブループリント=青写真、神が言われた設計図に手を加えたら

神の意図通りの”家”が建てられないのです。

ヤロベアムの罪とずっと書かれているその内容は、紛い物、

異教の神々の混ぜ物、そして自分が発明したものを

神の家に取り入れ、神の子らに同調、同化させるように

教える罪のことです。

 

神は真実な方であるので、人に紛い物を生きることを

禁じるのです。

私は自分でしっかり神の言葉を読んで、神の言われる事だけを

基準にしたい。それは、以前は神の真実ではない教えに

聞き入って、訳が分からない事を信じていたからです。

 

狭き門=この世の混ぜ物の教えではなく、神の真実だけを

通り、狭き門=イエシュア=トラーを通してアバ父を知る。

だから、人間の教えと神の教えの区別を、神の言葉を元に

して知りたいのです。

 

事実だけをたぐり寄せて考えることをしない限り、本当に

空想幻想の世界に留まってしまいます。

 

歴史の史実を調べていくと、21世紀に近い17世紀、

アメリカでも、クリスマスを祝うことをクリスチャン教会に

より禁じられていた時期があります。

どうしてなのでしょう?ハロウイーンを祝うことを反対するの

と同様に、クリスマスも同じカテゴリーの扱いで、祝うことを

反対されていたのです。どうしてなのか?クリスマスと言う

言葉も祭りも4世紀以前には祝われていないものです。

ヘブライ語聖書の中には無い言葉です。

聖書を読めば、パウロも使徒たちも誰も12月25日のクリスマス

なる祝い日を祝っていない事実が在ります。

どうしてなのだろう?と考えて自分で調べて行けば、その真相や

背景が見えてきます。

 

では、どの様にクリスマスと言う祝いが出てきたのか?

いつからその様な行事が行われる様になったのか?

それよりずっと以前から、クリスマスと言う名ではなく、

別の宗教の神々の記念日=誕生日=祝いが12月の同じ時期に

祝われていた歴史の事実があるのです。ではどうしてそれが

クリスマスになったのだろう?と言う”事実”だけを書いて

いきたいと思います。<私が書く必要もなく、ネットで調べて

いけば日本語でも情報があります。英語では、多彩な方面からの

数多くの詳しい、細かく調べたデータが在ります。

 

続く