浸透した人間の教えの伝説ではなく事実だけに基づいて考える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

このシーズンは色々な事を考える、思い巡らす、神の暦の

中では、刈り込みの時期でもあります。

在りて在るお方の記念日=過越の祭りまでの春を待つ長い冬。

今から春まで、シャバットと新月以外、何も”神の記念日”

が無い時期です。

 

今は世界の流れが大きく変わっています。

太古から語り継がれた同じ福音が、再び聞かれるようになると

在る通り、歴史の途中で”人間の教え”が混入したものではない

神の口から直接出た言葉=トラー=太古=永遠から変わらない

1つの福音を、神が世界へ明らかにしているからです。

 

4世紀以降、一方的に只西洋宗教の神学しか聞かされなかった。

でも特にこの10年位、オリジナルの聖書に書いてあることが

西洋の世界の翻訳聖書の中身とは違うこと、そして、ヘブライ語

聖書に書いてある言葉の情報がどんどん世界へ流れて行き、

元=オリジナルを聞く時代が来たからです。本物と人の解釈、

考えを加えられて、変えられてしまった翻訳されたものとを、

比べることが出来る時代が来たのです。

 

日本の中での情報では、さほど気がつかないかもしれない

ですが、お隣の国アジア圏の国々でも、そして世界の中でも、

イスラムの方々さえも、様々なアングルから、神を求める。

神を求めるとは、偶像の姿を想像して慕い求めるのでは無い。

 

神が残されている、神にアクセスできる神の実態=確固たる

揺るがない根拠、証拠=永遠の神の言葉、神の実態=文字で

書かれたトラー=肉体を取って来られたトラー、オリジナルの

神の言葉に戻り探ろうと切望する人=群衆が起こされています。

”島々はあなたの教えを待ち望む”と在るように。

 

人は、正しい情報に触れて、初めて真実の中で考え始める

と言う事が出来るのです。不真実の中で思いめぐらしてみても

それは、真実な答えにたどり着かない。神の本当の実態には

辿りつかない。人間が作り出した宗教の教えの中を巡って

しまう。

 

でも、神の言葉の真理の中のみに留まり、神の言葉の中、

声の中だけで探り求めるなら、必ず神を発見する。

私は見つけられるであろうと神が言われた通りに。

 

無条件に、無防備に、無点検のまま、世界に浸透した長年の

伝統の教えが真実であると思い込んでいた自分の旅路の足跡を

考える時、世間とは違う、聞きなれない、異物、でも神の言葉

の真実である情報を発信することは、勇気がいることです。

それは、神の創造されたどの分野の情報に於いても。

 

預言者エレミヤも、神から直接、トラーから離れて生きる

人々へ=戻れ!<悔い改めと言う翻訳の本当の意味は、

神の言葉=婚姻契約=トラーの生き方の中に戻れ>と言う

メッセージ=預言<神から預かった言葉、警告>を託された。

 

異教の神々の教えと混じり合ってしまったイスラエルの人々に

”トラー”に戻れと伝える事を、神から託されたのに、

心臓ばくばく、ひるむ、恐れが入る、気持ちが萎えて前に

進めないような弱気になったことが、赤裸々に書かれています。

なぜなら預言者の多くは人々に殺されてしまったからです。

 

誰かを、100%批判せずに、又逆も然りで、神のオリジナルの

ヘブライ語の言葉に基づいた正しい情報を伝えること、聞く事

で、誰かに理不尽に攻撃、煽り、威嚇、批判されることも

あってはならないことです。<なぜ神の言葉=神を知ろうと

する事への妨害があるのか?考えてみると見えてきます。>

エデンの園から同じ。

でも、神の真実=神のみ顔=実態を慕い求める人たちは、

真実な情報に触れたいと願うのは当然のことだからです。

真実を知ろうとする事を、誰も妨害してはならない。

 

これから、書く内容は神の言葉の事実だけ、根拠だけに忠実に

基づいて、自分の意見ではなく、書いてあることだけを根拠と

する。神の言葉の真実に目を向けるか、それとも事実から

目を背けるか。

 

”神の言葉に根拠のない、実態の無い、いや異教の神々の教えが

入った伝統”に固執したいと願うのか。そして、その情報に

触れたとき、自分の信じている、行動している根拠の元は

何か?と言う事を、欠け目なく、それぞれ真っ新な頭脳で

神の前に問う、考える事、考え選択出来る自由が許されるのは

当然のことなのです。

 

まずは、12月2日日没に迫ったハヌカの祭りですが、この中

にも”ラビ”達により付け足されてしまった作り物の教え、

根拠が何”寓話”が挿入されてしまっているのです。

 

ハヌカだけではなく、トラー以外にラビの教え=口頭トラーが、

神の言葉に付け足された事を、イエシュアが来られた時にも、

厳しく戒められている記録が福音書の中に書かれています。

 

あれは、イエシュアがアバ父の”トラー”を否定したのではなく、

アバ父の言葉に、人間=ラビ達が勝手に余計な教えを付け足した

事を、そのようなことはするなかれと言われていると言う、

正しい解釈に戻せば見えてきます。

 

しかも、イエシュアは父の言われること以外語らないと言われ

た意味が理解出来れば分かることです。”父の言葉”=トラー

以外、父に遣わされた子は語らない。語るべからず。

 

人は、自分の考えで”神が言われていない”余計な教えを付け足す

傾向、癖があります。勝手に解釈を編み出す。いや、神の言葉

をそのまま受け取りたくない”態度”が、ずっと聖書に貫かれ

書かれています。それを反逆と書いてあるのです。

 

自分たちの慣れ親しんだ方法が良い。神の言葉の言う通り

なんて古臭い、終わったものだと信じているから。

又は、自分の編み出した教えが神にとって、ありがたいと

思われると誤解しているから。”わたしの言う通りにして”と

言うことが、一貫して貫かれている”神のメッセージ”。

神の言葉など聞きたくない、自分の考えの方が神より優って

いると考えてしまう、反逆思考。

 

その動機は純粋かもしれないけれど、神の言葉の意図を汲まず

に、ややこしい人間の教え=宗教に変形させてしまうのです。

 

神の言葉の元の意味に戻ろう!と教えたのが、イエシュアの

語られた様々な教え=トラーの正しい解釈と生き方です。

それが山上の垂訓であったり<これは申命記の解説です>

たとえ話を通してであったりするのです。

 

人の教えに神の言葉がハイジャックされている。それを、

正しい目的地の方向へ起動修正しようと教えているのです。

 

 

続く