2000年前まで、救い主が地上に肉体を取ってこられる時
までは、神による人への厳しい、縛りの教えが与えられて
いたと言う仮説。
イエシュアが来たから、昇天以降は神の言葉の最初の部分は
終わり、恵の時代になり、全部許されるようになったと言う
Myth=架空の俗説。
その場合、殺人も姦淫も全部許されるからやって良い?などと
は誰も思わないはずですから。道徳的基準?に照らしあわせれ
ばあり得ないことだから。
でも、<同じ10の項目>の神の言葉は全部繋がっていて、
同等にイコール永遠普遍の神の言葉=同じなのです。
どの神の言葉も外せない。神がそう言われたから。
一点一画も付け足し、削除するなかれ。手や足を体から
切り離せない、後から自分の体の臓器を再製造し、移植
出来ないのと同じことなのです。
神の言葉のここからここまでは今も有効な教え、これとあれは
もう終わった無効な教えと誰の判断で宣言して言う事が出来る
のでしょうか?誰がそんな事、決めた、言ったのでしょう?
神それとも只の人間の只の発言?
イエシュアの完了の業は永遠から存在し、どの時代にも
同じ様に誰もが受けて来たものなのです。神に繋がった人は
神の仰せを生きるのです。生きることはキリストと書かれて
いる通り、イエシュア=肉体を取ってこられたトラーと
書かれている通り。宗教の教えは、救われたら神の言葉を、
生きなくてよいと教えているのです。
でも救われた人は、神のトラーを生きれる様にされていると
聖書には書かれているのです。
トラーが終わりなら、同性婚も、動物婚もそれなら何でも
ありのはずなのです。
2000年以降、その人、それぞれの基準、判断に任せますと
言う、詰まるところ、人間中心の基準。
神なし=無法=トラーレス。
そして、罪が許されるから、何でもやっても良いと言う甘い
緩い意識が入る。タガが外れたような意識を生み出す。
神が神ではなくて、人が神の言葉の選定をする、つまり、
ヒューマニズム=人間中心の思想にすり替わっています。
境界線ゼロ、神の言葉を神が否定して終わらせる?聖書の
どこにそんな事実が書かれているのでしょうか?そんな事、
どこにも書かれてなど無いのです。どこにも根拠が無い。
空想の世界。100%無い。
その場合、神の言葉を取る。人の教えは却下する。
神の言葉=トラーは完全、永遠普遍と書いてある。
自分の判断で神の言葉が真実か否か決める?神の絶対の言葉
=安全基準無し。危ないものでも安全というのが神の愛なの
でしょうか?
危ないものは危ない、人間がすることではない、人間が取り
入れるものではない。人間の食べ物ではない、これはあなたの
することでは無い、別の教えと混ぜてはならない。
これはあなたのエッセンスにぴったりだから、神の言葉通り
に生きなさいというのが律法で縛り付けの神なのだろうか?
道路を1000キロの速さでで走り、子供も高速道路を走っても
安全、良いとする。それと同じです。自分の判断で好きな
ように、思いのままにあなたの判断に任せて、神の言葉は
終わりとして生きなさい。そんな安全な境界線を取り払うと
言う教えは本当に危険です。しかも別の契約書などこの世の
どこにも存在などしないのです。存在しない契約書を、
異邦人に与えられた別の契約書が出現、存在したと言う
教えがあるけれど、福音書から黙示録が、異邦人への別の
新種の新しい契約?
聖書の最後の三分の1は、トラー<預言書、諸書は、トラーの
解説>100%の中身の解説、注解、コメンタリーなのです。
聖書に根拠の無い教えを信じていると言うことになる。
パウロの語っている教えは、100%ピュアにトラー、
そして、トラーから離れる事への警告をした”預言書” 諸書のみ
を語っているのです。聖書に記されている全ては、100%
トラー、預言書、諸書の内容のみ。福音書から黙示録まで
書かれている最中のテキストは、トラーとその解説の
預言書、諸書のみ存在しているだけなのです。別の福音は無い。
もちろん、パウロがトラーが終わり、新しい教えを自分で
編み出して語ってなどいない。そんなことすれば、それは神の
使徒として聖書にパウロは記されないし、彼の書簡は聖書と
しては認められないのです。
使徒とは、神に遣わされ、神の言葉=トラーをそのまま伝える、
教える人達を使徒とヘブライ語聖書では呼ぶのです。
誤解の大きな雪だるまは今日もどんどん膨れ上がっているの
です。神の言葉を否定した、人の教えをベースにして考え、
信じているからです。神の言葉だけに戻る。神の言われた事
を真実だと認め信じる。そうすれば真実が何か分かる。
人間の生きる基準、デザイン、境界線は、2000年前も以降も
何も変わらない。エデンの園から変わらない。生活の細部
100%、神が作られた人間のデザインも変わらない。
何も変わってなどいなのです。国が違い、時代が変わり、
生活スタイルが変わっても。人間が進化しないからです。
根本的な”真理”は全て同じ。新しい天と地、天と地が一つに
なり、新しいエルサレムが上から降りて来て、隔ての壁が
なくなり、ぴったり1つになっても、同じイスラエルの神の
トラー=神の家の子ら、コミュニティが生きる、神がデザイン
された全てを、今度は全世界の民族が生きるようになる事が、
預言書の中に、又イエシュアの口から語られた事が
書かれています。
それがエレミヤの言われた”誰も主を知ろう”と言わないと言う、
時代が来るのです。腹=DNA刻まれた=神の似姿の人の
エッセンス=トラーを皆が生きる。
その”契約”の再更新の認識をさせて、ちぎりの印を交わしたの
が、イエシュアの最後の”過越の祭りの晩餐”での声明なのです。
誰も神の言葉を否定する人は居ない世界が来る。
シナイ山での時の様に、異教の神々の混ぜ物の教え=金の
子牛=異教神の印や習わしを内側に取り入れて、イスラエル
の神の教えと混ぜ物して生きる人は一人も居なくなる世界が
来る。
新しい契約=人数が変わる=契約に参加する全部の人達が、
頭脳の隅々まで理解してトラーを生きるようになる。
シナイ山で初めて契約が与えられた、金の子牛を通して
高きところ、混ぜものの教えを引きずっているそんな
状態では無い状態で、同じトラーを、神の意識とぴったりに
生きるようになると書かれているから。
それがエレミヤ31の預言です。
31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家と
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとって
エジプトの地から導き出した日に立てたようなものでは
ない。
わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの
契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家
に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの
トラーを彼らの<カレヴ=腹の只中>に置き、その心
<レヴ=頭脳>にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は
言われる。
31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、
『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、
彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる
からであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、
もはやその罪を思わない」。