人間の作り出した教え  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2000年前まで、救い主が地上に肉体を取ってこられる時

までは、神による人への厳しい、縛りの教えが与えられて

いたと言う仮説。

イエシュアが来たから、昇天以降は神の言葉の最初の部分は

終わり、恵の時代になり、全部許されるようになったと言う

Myth=架空の俗説。

 

その場合、殺人も姦淫も全部許されるからやって良い?などと

は誰も思わないはずですから。道徳的基準?に照らしあわせれ

ばあり得ないことだから。

 

でも、<同じ10の項目>の神の言葉は全部繋がっていて、

同等にイコール永遠普遍の神の言葉=同じなのです。

どの神の言葉も外せない。神がそう言われたから。

一点一画も付け足し、削除するなかれ。手や足を体から

切り離せない、後から自分の体の臓器を再製造し、移植

出来ないのと同じことなのです。

 

神の言葉のここからここまでは今も有効な教え、これとあれは

もう終わった無効な教えと誰の判断で宣言して言う事が出来る

のでしょうか?誰がそんな事、決めた、言ったのでしょう?

神それとも只の人間の只の発言?

 

イエシュアの完了の業は永遠から存在し、どの時代にも

同じ様に誰もが受けて来たものなのです。神に繋がった人は

神の仰せを生きるのです。生きることはキリストと書かれて

いる通り、イエシュア=肉体を取ってこられたトラーと

書かれている通り。宗教の教えは、救われたら神の言葉を、

生きなくてよいと教えているのです。

でも救われた人は、神のトラーを生きれる様にされていると

聖書には書かれているのです。

 

トラーが終わりなら、同性婚も、動物婚もそれなら何でも

ありのはずなのです。

2000年以降、その人、それぞれの基準、判断に任せますと

言う、詰まるところ、人間中心の基準。

神なし=無法=トラーレス。

そして、罪が許されるから、何でもやっても良いと言う甘い

緩い意識が入る。タガが外れたような意識を生み出す。

神が神ではなくて、人が神の言葉の選定をする、つまり、

ヒューマニズム=人間中心の思想にすり替わっています。

 

境界線ゼロ、神の言葉を神が否定して終わらせる?聖書の

どこにそんな事実が書かれているのでしょうか?そんな事、

どこにも書かれてなど無いのです。どこにも根拠が無い。

空想の世界。100%無い。

その場合、神の言葉を取る。人の教えは却下する。

神の言葉=トラーは完全、永遠普遍と書いてある。

自分の判断で神の言葉が真実か否か決める?神の絶対の言葉

=安全基準無し。危ないものでも安全というのが神の愛なの

でしょうか?

危ないものは危ない、人間がすることではない、人間が取り

入れるものではない。人間の食べ物ではない、これはあなたの

することでは無い、別の教えと混ぜてはならない。

これはあなたのエッセンスにぴったりだから、神の言葉通り

に生きなさいというのが律法で縛り付けの神なのだろうか?

 

道路を1000キロの速さでで走り、子供も高速道路を走っても

安全、良いとする。それと同じです。自分の判断で好きな

ように、思いのままにあなたの判断に任せて、神の言葉は

終わりとして生きなさい。そんな安全な境界線を取り払うと

言う教えは本当に危険です。しかも別の契約書などこの世の

どこにも存在などしないのです。存在しない契約書を、

異邦人に与えられた別の契約書が出現、存在したと言う

教えがあるけれど、福音書から黙示録が、異邦人への別の

新種の新しい契約?

 

聖書の最後の三分の1は、トラー<預言書、諸書は、トラーの

解説>100%の中身の解説、注解、コメンタリーなのです。

聖書に根拠の無い教えを信じていると言うことになる。

 

パウロの語っている教えは、100%ピュアにトラー、

そして、トラーから離れる事への警告をした”預言書” 諸書のみ

を語っているのです。聖書に記されている全ては、100%

トラー、預言書、諸書の内容のみ。福音書から黙示録まで

書かれている最中のテキストは、トラーとその解説の

預言書、諸書のみ存在しているだけなのです。別の福音は無い。

 

もちろん、パウロがトラーが終わり、新しい教えを自分で

編み出して語ってなどいない。そんなことすれば、それは神の

使徒として聖書にパウロは記されないし、彼の書簡は聖書と

しては認められないのです。

 

使徒とは、神に遣わされ、神の言葉=トラーをそのまま伝える、

教える人達を使徒とヘブライ語聖書では呼ぶのです。

誤解の大きな雪だるまは今日もどんどん膨れ上がっているの

です。神の言葉を否定した、人の教えをベースにして考え、

信じているからです。神の言葉だけに戻る。神の言われた事

を真実だと認め信じる。そうすれば真実が何か分かる。

 

人間の生きる基準、デザイン、境界線は、2000年前も以降も

何も変わらない。エデンの園から変わらない。生活の細部

100%、神が作られた人間のデザインも変わらない。

何も変わってなどいなのです。国が違い、時代が変わり、

生活スタイルが変わっても。人間が進化しないからです。

 

根本的な”真理”は全て同じ。新しい天と地、天と地が一つに

なり、新しいエルサレムが上から降りて来て、隔ての壁が

なくなり、ぴったり1つになっても、同じイスラエルの神の

トラー=神の家の子ら、コミュニティが生きる、神がデザイン

された全てを、今度は全世界の民族が生きるようになる事が、

預言書の中に、又イエシュアの口から語られた事が

書かれています。

それがエレミヤの言われた”誰も主を知ろう”と言わないと言う、

時代が来るのです。腹=DNA刻まれた=神の似姿の人の

エッセンス=トラーを皆が生きる。

その”契約”の再更新の認識をさせて、ちぎりの印を交わしたの

が、イエシュアの最後の”過越の祭りの晩餐”での声明なのです。

 

誰も神の言葉を否定する人は居ない世界が来る。

シナイ山での時の様に、異教の神々の混ぜ物の教え=金の

子牛=異教神の印や習わしを内側に取り入れて、イスラエル

の神の教えと混ぜ物して生きる人は一人も居なくなる世界が

来る。

 

新しい契約=人数が変わる=契約に参加する全部の人達が、

頭脳の隅々まで理解してトラーを生きるようになる。

シナイ山で初めて契約が与えられた、金の子牛を通して

高きところ、混ぜものの教えを引きずっているそんな

状態では無い状態で、同じトラーを、神の意識とぴったりに

生きるようになると書かれているから。

 

それがエレミヤ31の預言です。

31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家と

ユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。

 31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとって

エジプトの地から導き出した日に立てたようなものでは

ない。

わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの

契約を破ったと主は言われる。

31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家

に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの

トラーを彼らの<カレヴ=腹の只中>に置き、その心

<レヴ=頭脳>にしるす。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は

言われる。

31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、

『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、

彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる

からであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、

もはやその罪を思わない」。