神の御国 天のカレンダーの記念日 第七日目 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

親が居て、子供達はこの親を通して家庭に生まれて来て、

その家庭の中で、”人間の生き方”を教えられ成長して行く。

親から全ての知恵、教訓、家訓を教えられる。

親は律法を与える人ではなく、子供を正しく導く、保護する

愛する、育てる人。

 

このモデルの大元は”創造主” イスラエルの神と、神の家。

天の御国が元です。神の御国の家訓は”トラー”。

エデンの園から同じ家訓。神の家の家訓の全てが文字として

書き記され初めて与えられたのは、シナイ山での出来事。

この日は、シャヴオートとして祝われる日。

 

それまで、全て神の御口から神の子らは、口頭でトラーを

伝えられた。神の言葉の中のみで生きる=命の木からだけ

食べる。その詳細が、トラーに書かれているのです。

 

トラーとは律法と誤解して、”トラー”は2000年前まで救いが

無い人たちに与えられた呪いで呪縛の律法で、この律法の

呪縛から解放されるために、イエシュアが来られた

と言う神学。この神学はヘブライ語聖書から訳された

ギリシャ語のノモスと言う言葉を誤解しているために

出現した教えなのです。

 

神が神の言葉を呪い、縛りとして人を長年縛りつけ、それから

解放し、今何でもありの自由な時代、世界になった。

それでは、イエシュアが言われた無法=トラーレス。

トラーレス=無法を実現したという教えは、

聖書=イエシュアの御口から出た言葉とは異なます。

 

人は、罪の法則から解放されたのであり、神の言葉から

解放されたのではない。神の言葉は真理であり真理は人を

自由にすると書かれている事とまるで矛盾してしまいます。

 

神のトラーは完全。神のトラーは人の道を照らす光。

しかも、イエシュア御自身が、トラー、預言書は私そのものと

言われた事と辻褄合わない。イエシュア=トラー=律法から

解放し救い出すために来た?となってしまうのです。

ギリシャ語で訳されたその言葉が問題なのです。

”ノモス”と言う色々な言葉に適用できる多様性のある言葉を

使っているからです。

言語の誤解を解けば見える。いや文脈を読めば分かるはず。

何をパウロが語っているのか読み取れる。

神の言葉は永遠普遍、神の言葉は完全と言う言葉を土台に

すれば、翻訳の中身が何か変と気が付ける。

 

まず、神の言葉、天の国、神の家の家訓、祝い日は

永遠普遍という正しい位置に戻して見れば、神の語られている

内容が、創世記から黙示録までぴったり全く一貫している事実

に気がつく事ができます。

 

神の家には、独自のカレンダーがあるのです。

この世とは全く分かたれている=聖別とは、この世と分かた

れている、神の目的の上に置かれていると言う意味の

ヘブライ語の言葉なのです。それは、神の意図通りの目的に

沿って全てが機能、動く、生きると言う意味でもあるのです。

 

言葉でコミュニケーションを取りますが、相手の言う事を

否定し、又は勝手に相手の言った言葉を変更し、自分流に

作り変えてしまったら元の意味が正しく伝わらなくなります。

 

シャバットは、神の言葉、神から発信したもので、

これは、永遠普遍です。第七日目とはっきり記されています。

今日も空に、月、星、太陽、そしてこの世界が今存在している

ならば、神の言葉=神の記念日も変わらずに有効なのです。

神の言葉に基づけば。

 

私たちは誰かの意見を聞いて、それが神の言葉だと信じている

事が多々あるので、見えて来ないだけです。神の言葉に戻り

自分で確認して、自分の頭でじっくり考えることが必要です。

そして、神の言葉の真実は人の盲目状態を破る事が出来ます。

 

どうやって破るのか?神の言葉だけに聞き入り、神の意図通り

に考え、実際に神が言われた事をやってみれば、神の言われた

ことの中身を実体験するからです。

 

シャバットをイスラエルで、もし意図通りに体験したら、

いや、自分の国、諸外国に居ても同じようにシャバット、

記念日を祝ってみたら、これらが”呪いの律法”だなどと言う

ことが、完全に神に対しての偽証である疑いが晴れるはずです。

 

この日は、楽しい、心待ちにするもの。

私がシャバットを祝い始めたのは、2012年からです。

ヘブライ語聖書を学び始めてから、4年位経った時です。

その年に初めて、イスラエルに行き、一ヶ月滞在する中で、

4回のシャバットを経験し、実際にシャバットを体験したこと

で、光に打たれる体験。強烈な、そしてどれほど、祝福と、

あたたかさと、そして神が言われた通り、特別な出会いが

第七日目に在ったのか知った。自分が何を奪われて生きて

いたのか気が付いた。

 

イエシュアの言葉を聞いて、その通りにした人たちだけが、

水がワインに変わった事を体験したとある下りが胸に響きます。

ワイン=喜びの印。聖書にちゃんと書かれている。

 

どの日でも、神に出会うし、特別な経験をすることがある。

でも、神が皆でこの日を”記念日”として祝うと決めた、

神がその様にデザイン、創造したのには意味があるのです。

 

毎日が、記念日なんてありえない。毎日がシャバット?

毎日が休み?働かない日?神は6日目までに全ての仕事をして

と言われたのです。記念日は特別な日だから

特別な印象、体験を持って過ごす事ができるのです。

そして、その日のために、日々を準備して生きる。

リハーサルです。これは、来るべき天の国に実際に生きる

リハーサルでもあるのです。

 

シャバットを生きて、祭りを生きると全てが、神の言葉に”

いつも注意が向く”状態になっている事に気がつきます。

全ての業、仕事も家事も勉強も何もかも、全部この神の記念日

を中心にプランして行く。

 

そして、6日目までに全てを終わらせる。終わらない場合は、

敢えて止まる。やり続けることをやめる。神が備えて下さる事

に信頼して、余計な努力や策略を止める、やめる。

普段と違う日として過ごす。

 

何も心配しないで、この日を”喜び、楽しむ”

家族が居る場合は、自分と家族のために、この日を大事に

過ごす。だから、余計な仕事や家事をしたら、そんな時間も

取れないから止まる。

 

子供が巣立ったり、パートナーが他界したり、いや関係が

壊れたり、家族と別れた経験をした事がある場合はっきり

分かるでしょう。

もっと相手と向き合って、ちゃんと話を聞いてそして、仲良く

家族と言う関係、実態を育んでいれば良かったと。

こう言う後悔は本当に分かります。

 

子育て間違った。相手とちゃんと関係を結ばなかった。

子供にもっとこうすれば良かったと後から気がつく。

だから、今日と言う日に、安息という実態、本当の関係に、

入る時間が残されて居るうちにちゃんと取り戻そうと。

終わりと言う時が、来る事は、6日までにという期限付きでも

理解できる。そして、1週に一度の第七日目に止まる。

どうして、なんで七日目?理由は簡単。神がそう言われたから。

それで十分。神の言葉に、神の決めた事に、神の言われた事に

人間が言い訳付け足して変更してはならない。神が言われた

事を本当に信じて生きるなら神に反論などしない、

いや、反論することは愚かと分かる。

 

そして、その日を神の意図通り過ごしたら絶対体験する。

でも、やってみないなら分からない。

食べたことのない食べ物の味が分からないように

神が言われた通りに、言われた意図通りにまず、やってみる。

信仰は、神の言葉から聞いた事を生きる事。

生きる事は、キリスト=イエシュア=トラーに

書かれた中身をイエシュアが生きたように御足の後を生きる事。

 

シャバット シャローム

 

この世は神の記念日を律法と呼びますが、

神は、これらを”祝福” ”喜び楽しむ” ”神がどんなに

良いお方なのか、記念日を通して知る”そして、神と婚姻関係

の間で固く、揺るがずに結ばれている”印”と言われています。

人の教えと、神の言葉が解説する神の記念日とは

まるで違う内容だと体験すれば、はっきり分かります。

神を中心に、神の定めた日第七日目に、お互いを

神を通して、本当の関係に回復、戻る、祝う、

神の意図通りに繋がる。