自分の目で原文を確かめてみる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1列王記12章の続きですが、聖書の中にオリジナル テキスト

=原語で書かれた”聖書”の中身と、翻訳された中身が違う

箇所が存在し明らかに、”付け足し” ”削除”された形跡が

あります。

 

それは、どうして分かるかと言うと、原書と翻訳を

見比べれば、はっきりと分かるからです。原書に無い言葉が

足されている箇所、原書にある言葉が削ぎ落とされているなど。

ごっそり抜けている箇所、付け足されている箇所など、

後は、意味が全く誤解されてしまう言葉で訳されているなど、

これは、別のトピックで深い内容なので、今は書きません。

又”伝統”の教えが聖書の事実だと思ってしまっていることも

あるのですが、それはユダヤ人の世界にも、西洋宗教の世界

にもあるものです。

 

”神のオリジナルの言葉”の意味からズレてしまう。

 

例えば、1列王記12章に繋がることなのですが、

神の創造された記念日は、レビ記23章に書かれているもの

なのです。これは、神の御口から語られた通り、永遠普遍の

ものなのです。民数記や、申命記にもパラレル=平行で

同じ内容が記載されています。神の創造された記念日以外は、

人間が決めて作った記念日であり、神が人間が後から

作り出した”記念日”を祝うように仰せになってはいないという

”事実”をはっきりさせなくてはならないと、何が真実なのか、

混同してしまいます。

聖書に書かれている出来事に繋がったとしても、それを

”神の記念日”として人間が勝手に作り出す事が出来ないのです。

 

イエシュアも祝っていた、”ハヌカ”=宮清めは、神の仰せでは

ない”記念日”です。でも、この記念日を祝う意味は大いに

あります。

何しろ、イエシュア自身も祝われていたものです。

ハヌカの祝いの裏にある”事件の真相”〜”歴史の事実”を

調べたら分かるのですが、これは、今は横に置いておきます。

 

この聖書の神の仰せでは無い記念日を祝う祈りの中で、
”神の仰せによりこれを祝う〜”と言う祈りの下りがあるのです。

でも、それは事実ではないことなのです。なぜ?神の仰せで

ないから。神がそうしなさいと言われて、その日を祝うの

ではないから、神の仰せでと祈るべきでは無いのです。

このところクリアーにすれば、見えてきます。

”神が言ってないのに、神が言ったと言ってはならない”と

言うことです。

 

例えば誕生日や、結婚記念日など、我々文化の、個人の習慣で

している記念日は、神が祝いなさいと言う仰せによりして

いるのでは無いと言う区別が必要なのです。

 

なぜなら、神に造られた記念日には特別な意図、

意味があるからです。そのような正しい”敬意を”払って、

区別しなくてはならない。それが聖書に書いてある”聖別”の

本当の意味です。神の意図通り、目的に沿って”分かたれた”

と言う意味だからです。

そして、神の記念日は、神のオリジナルのデザイン、

人間がデザインしたものではないからです。

”神の記念日”は、丸ごと神の福音の中身を

生きて表しているものなのです。

 

週に一度の第七日の記念日。この中に、永遠から存在する

”完了の術”=地上で表された”イエシュアの業”が既に人のため

に存在していることがちゃんと表されている。

神が全ての業を終えて止まったと言う一言の中に、

その”事実”がちゃんと書かれて表されているのです。

 

つまり、人の生きる全てがこの中に完結している。

一人一人のニーズの全てが、永遠の中から用意されて在る。

今日の必要、未来の必要、救い、贖い、助け、人が生きるに

必要な全てが用意されていることが書かれています。

神とが内側に住まう人の一番深い必要、ニーズ

全てが入っているのです。人は神から離れて生きるように

はじめから造られてないからです。

 

だから、歴史の途中まで、救い、贖い、助け、神が人の中に

住まわれないと言う”神話”=”仮説”=”伝説”は、事実ではない、

聖書全体を探り、読んで、見渡しても分かります。人は始め

から神と顔と顔を合わせて生きる存在、神のルアフ=霊を

吹き入れられて生きる存在、神の中、そして神も人の内側に

住まわれている存在として造られたからです。

 

霊が内側に住まわないなら、どうして神と人とが語り合うこと

が可能なのか?それだけ考えても分かると思います。

トラー、預言書に、神と人が直接関わる、対話する、しかも、

神が人のうちに住まわれている事実が、ヘブライ語で

はっきりと記されている事実があるのです。翻訳で見えない

かもしれないですが。古代の人たちの方がよっぽど深く、神と

密着していた関係の中に居た事が記されています。

 

この第七日の記念日は、福音の中心なのです。

そして、春の記念日、過越し、種無しパンを食べる7日間、

初穂を祝う日、そして7回のシャバットを7週過ごして、

シャヴートが来ます。その日は、婚姻契約を受け取った

記念日として祝われている、過越も、シャヴオートも

都上りの祭りなのです。だから、使徒たちは、過越の祭り

でエルサレムに来て、そのままエルサレムに

留まるのは、普通のことであったのです。

過越し=出エジプトして、シャヴオート=シナイ山で婚姻届を

受け取った。イエシュアが来られたこと=過越の祭りで、

”木に掛けられ” そして、初穂を祝う日で復活の事実を

表されている。実際に、祭りの内容を肉眼で地上で見る

事件、出来事となりました。

 

復活の祝いは、既に、この”初穂を祝う日”で祝うように

設定されているのです。神のデザインはパーフェクト。

完全です。そして49日間の穂を数える日々で、

新しくされた人の事実を生きていくことを教えられているので

すから、歴史の途中で初めて、救い、贖い、助け、霊が降った

と言う教えが、聖書とは食い違っていることが分かります。

 

ヘブライ思索は、円です。円=永遠の中から考える。

全ては中心=神御自身の実態に向かって、どこの時点でも

アクセス可能なのです。神には、不公平は無いから。

 

過去の人は未来へ、現代、未来の人は過去へ、救い主が

来られた事を同様に眺めているのです。

 

そして、秋の祭りは、これから未来に来るものです。

でも、この中には、既に、イエシュアの誕生も入っているの

です。どうしてイエシュアが来られたのが秋の祭りの時か

分かる記録が色々とあるのです。

祭司ゼカリヤの神殿での任務期間と、妻エリザベトの懐妊の

時期、イエシュアの母ミリアムとエリザベトが会見して

滞在した時期。住民登録で大勢のユダヤ人が移動する時期。

空に出る”星”。この星がヘブライの世界で何と名付けられ、

その星がいつに出るのか?それが、分かれば分かる。

手がかりがちゃんと書いてあるのです。

その星は、秋の”神の定めの日” 祭りの時に出る星。

なんで星見て分かるの?と思ってましたが、謎が解けます。

しかも、その星は、”王” ”義”と言う名が付けられている。

事実を捉えると見えて来る。

しかも、重大なことは、神のモアデイムに必ず起きています。

ランダムな意味の無い日ではない。

 

戴冠式、王の到来は、第七の月の1日、ヨム テルア そして、

大贖罪日、そして、仮庵の祭り。

これらは、イエシュアのはじめの到来と、未来の到来、そして

全ての国民が神の”トラー”婚姻契約の中に戻ることが表されて

いる祭りなのです。

 

レビ記23章に書かれた通りの日に書かれた日を祝うように、

神は創造されたのです。

聖書に書かれているからと言って、その出来事を題材として

人間が勝手に、レビ記23章以外の”神の祭り”を作り出すことを

神が禁じている事が書かれています。

列王記1 12章は、ちょっと変形しただけ、同じ祭りじゃない、

似てるから、少し位、日時、中身、祝い方が違ってもどうでも

良いじゃない?

でもこれが神の目にどう映ったのか書かれているのです。

 

続く

 

1列王記12:29 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに

置いた。

12:30 この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、

ダンへ行って一つを礼拝したからである。

12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を

祭司に任命した。

12:32 またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に

定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が

造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司を

ベテルに立てた。

12:33 こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。

これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼は

イスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。