人の編み出した教えと神の言葉とは異なる 1列王記 12 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1列王記12:28 そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、

民に言った、

 

<金の子牛=エジプト=異教の神々の国で親しんだ習わし

金の子牛を通して、イスラエルの神を拝む事。

これは、イスラエルの神が教えようとする”神への近づき方”

とは全く違うことです。>

 

シナイ山でモーセが婚姻契約を受け取りに行っている間に

もう神に捨てられたと信じこんだイスラエルとそして共に

出エジプトした異邦人達は、自分たちの手で、自分たちの

編み出した方法=仲介者で神に近づこうと試みたのです。

 

エジプトで奴隷として生きて来た時に慣れ親しんだ方法で、

思いつく限りの最高のもの=金を捧げる。

エジプトから持ち出した金をみんなで差し出して、

金の子牛の像を作った。

金の子牛で、イスラエルの神を拝み、勝手に”神の祭り”

祝った事と同じ事を、この王は繰り返しています。

 

「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。

イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上った

あなたがたの神を見よ」。

 

この時点でこの王は”自分が神の権威、神の座”に座っています。

神の言葉を差し置いている。神の言葉を捨てて、

もうエルサレムに上るには及ばないと宣言しています。

つまり、エルサレムに上る、神の家に神が造られた”祭り”を

祝うために、上って来なさいと言う神の言葉をこの

ヤラベアム王はもう終わった、不必要、破棄されたと

勝手に宣言して言っているのです。

これと同じ事、私もずっと聞いてきました。勝手な自己宣言。

 

もう神の言葉は、2000年以降終わったんだよ、イスラエルは

神に見捨てられ、今度は新しい教え、契約に変わったから

古い教えを捨てなさい、古い教えは不完全な神の言葉、

悪い呪いの律法だから。自分達=異邦人が新しい”霊”の啓示を

頂いた代表者に選ばれた。自分達が最も優れた教えを

今度は頂いたという教えです。

一体誰が言った事なのでしょう?聖書のどこにそんな事、

書かれているのでしょう?無い、見つけられない、

書かれてないからです。

別の啓示、別の契約、優れた契約?世界のどこにそんな書が

存在するのだろう?クムランの洞窟のツボの中で、

まだ発見されてないけれど、あるはずの書?それでは、

その別の契約書の内容を誰も読んだ事が無いけど、信じると

言う、もう空想、仮説の世界です。

その仮説は、神の言葉は不完全だと言う事を言っている

のです。そんな事、神御自身が言われるわけないのです。

神のトラーは”完全”とダビデも書いている。

なぜ、書かれてもいない事を根拠に、人の編み出した教えの

方が神の言葉より正しいと思うのか?いや、書かれていない

と言う事に気が付くことが出来ないだけです。

それは、聖書に書いてある事が見えない、永遠普遍と

書いてあるのに、本当は終わったのだ〜と誤解して読んで

いるからだと思います。

 

神の言葉を捨てよと言うその教えの出所、大元は、

”ローマ”政府から発しています。ずっとずっとローマに

世界は支配されていた、そのローマが、神の言葉を

捨てよと弾圧し続けてきた歴史の事実を、調べてみれば、

はっきりと分かります。自分で調べなければ、考え始めて

疑問に思わなければ、正しい情報に触れる事がなければ、

 .分からない。でも調べれば、謎が解けていく。

なぜ、書いてある事と違う事を信じているのか?と言う

パラドックスが見えてくる。

ローマ、ギリシャその大元は”エジプト”なのです。

イスラエルの神に対抗する10の神々。

特にエジプトの神”ラー”太陽神。

10の災いは、10の神々=この世の暗闇の存在への

裁きだった事が書かれているのです。

その暗闇の勢力は、イスラエルの神、イスラエルの神の言葉

イスラエルの神の言葉を生きる人々を抹消しようとし続けて

いる事に気がつけば、どうして神の言葉が曲げられて、

世界に浸透してしまったのか見えて来る。パウロも警告した

”別の福音”に走る、簡単に逸れて行くと。

 

神の言葉=契約が終わったとするなら、たくさんの事が、

聖書の記述と辻褄が合わないのは明らかです。

神から発した教えではない。

 

考えてみれば分かります。なぜ、昇天後、使徒やパウロが

変わらずに、トラーの中身を生きていたのか?

なぜ、神殿で”コバーン”生贄と訳される本当はコバーン、

動物の生贄をパウロが捧げて”清めの儀式”を神殿でして

いたのか?不思議に思った方が良いです。

なんでだろう?と、考えれば分かる。

それは、婚姻契約=トラーが終わってないからです。

罪の贖いのために動物が捧げられている訳ではないからです。

動物の血は罪を消せないとクリアーに書いてあります。

 

しかも、イスラエルの各地に住む人全員がエルサレムに来て、

捧げものなど出来ない事が分かれば、一部の人しか

適用されない教えと言う事になってしまう。

 

そこで行われていることは、”神の家”の中で暮らす”モデル”が

表されている、教えられている事が見えてくるのです。

その中身の詳細は、トラーに書かれているのです。

どのように神に近くか、どの様に神の家の子らは、生きるのか

どの様に”神の祭り、記念日”を祝うのか、どの様に自分が

ずれたら、神の前に修復するのか、又人に対して違反、

傷つけたら、どの様に修復し、仲直りし、元の状態に

どうやって戻るのかちゃんと教えているのです。

これは、荒野での12部族と異邦人達の”住まい方”でも

表されているのです。

世界の中、世界の中心で、世界中が一つの神、一つの国、

一つの国民、一つの家、一つの”婚姻契約”一つの大家族、

一つ場所、神の中に戻る。

都上りの祭りは、まさに”一つの大家族”が一つの神=親へ、

親の家へ戻り、家族が皆と神を中心に祝宴をする姿。

福音の中心が語られている。

これは別のトピックなので今は書きません。

 

イエシュアが来られたのは、”トラー”を成就=神の契約内容を

正しく理解し、その中身を神の意図通りに生きる事を教える

ため。

破棄=人の教えによって、神の言葉、契約内容が

歪んで伝えられている。”破棄”するために来たのでは

ないと言う言葉の意味は、意図通り以外を伝えるために

来たのではないと語っているのです。

もし、救い主が、神の言葉を捨てるために、終わらせる

ために来たと言うなら、福音書、使徒以降に書いてあること

も全部辻褄が合わなくなります。そこに書かれているのは、

引用されているのは、トラー、預言書、諸書の中身だから。

エデンから出て、エデンに修復される集大成が書かれている。

世界へ使徒達が出て行くように任命されたのは、”神のトラー”

を世界へ伝え、教え、生きる手本を示すことだからです。

御言葉、主の言葉とは、”トラー”をさして聖書では

語っているのです。

 

イザヤ2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に

登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに

教えられる、われわれはその道に歩もう」と。”トラー”は

シオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである

続く