創世記 1:14
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを
分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
1:15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。
そのようになった。
昭和の歌謡曲の中に、”空に太陽が〜あるかぎ〜り〜”と言う
のがありましたが、シャバット、神の記念日と神の契約が今も
有効である目に見える証拠があります。
月、星、太陽です。
これらは、神の”記念日”=モアデイムを司るため、
契約が有効である印=א֥וֹת=オウト=証、証拠、誓いを
告げ知らせるために造られた事が創造の始めに記載されて
います。
季節のためにと書いてあるのは、春夏秋冬の事ではなく、
”モアデイム”=神の記念日を司るためと言う言葉で
書かれています。
詰まり、神に取って神の造られた記念日、
特にシャバットは記念日の中心の中心であり、
この日がどれほど重要なのかは、聖書のページの面の至る
所で説明されています。
どれほど、重要なのか?命に値するほど重要であると
書かれているのです。
人にはピンとこなくても、神がそう言われているから
神の言われる通りに受け取り、その様な価値として、
取り扱う事を、この世界を治める、世の光、地の塩としての
役割を与えられた人達に与えられているのです。
神の立てられたブリットが、永久に有効=イスラエルと
そしてイスラエルの神を信じて同じ契約、同じ家族の
一員とされた全ての人に永久に有効である事が、はっきりと
書かれています。
今日、月、星、太陽が天気が悪くて観測出来なくても、
これらが天から消え去っていない事実があれば、
詰まり、契約は今日も今も永遠に有効である印が
空を観察して肉眼で見えると言う事が書かれています。
出エジプト 31:16
ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、
代々安息日を守らなければならない。
31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間の
しるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、
七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
31:18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、
あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた
石の板をモーセに授けられた。
16節に、永遠の契約と書いてあります。
永遠=オラーム。シナイ山から、1500年後には、
破棄されて、無効になる契約ですと書いては
無いです。”永遠”は永遠と言う意味以外に無いです。
日本語でも、ヘブライ語でも。
原語ですと、ハ シャバット ロ ドラタム ブリット
オウラームと書いてあります。シャバットは、
永遠=オウラームロ ドラタム=代々に渡り、有効な契約
である事が神の口から直接語られた言葉で、モーセが
記しています。
モーセの口から出た、モーセの記した記述は、詰まり
イコール神の言葉です。ですから、”モーセ”に聞きなさいと
書かれているのです。
詰まり、モーセを通して書き記された神の言葉に聞きなさいと
書いてある。
書いてある事だけを元に、考えるという基本原則を外さなけ
れば見えて来ます。ヘブライ語で書かれたモーセの書が、
全てのデイスカッションの共通グラウンド、原則なのです。
それ以外の照らし合せ、基準はこの世のどこにも無いです。
人の教えを共通グラウンドにしてしまうと、錯乱、混乱
バベルの塔になります。
神の契約は、期限付きの契約などと書かれていない。
いずれ救い主が来たら、全世界がイスラエルの神の言葉=
トラーを生きる様になると預言もされています。
書かれている”永遠”と言う通りに読めば、永遠である事が
分ります。そして、天の万象が今日消えたら、
今日この世界が消えたらそれは終わりでしょう。
でも、そうでは無いのです。
神の言葉は、永遠不変とある通り、神の約束、
保証、契約はイスラエルの神を信じる人に
昨日も今日も永遠に変わりなく堅く存在している
証拠、婚姻契約の中に安全に守られている”印”=証=
証拠として、シャバットを祝いなさいと神が言われたのです。
もし、永遠不変の契約が途中で、イスラエルの神により
破棄されたら、イスラエルに対しての約束が消えたら、
異邦人も同様に、跡形も無く、見捨てられ、吹き飛ばされ、
消されてしまうと言っている事と同じなのです。
神を愛するとは、神の言われた通りを生きる事と
書かれています。
神を愛する証拠はどこで、分るのか、見えるのか。
信仰は、人のアクション、生き様、行動で現れるのです。
神を信じますと言いながら、イスラエルの神の言う事に
反対する様な生き方をしていたら、それは神の目からみて
ズレている事は明らかだと誰でも理解出来ます。
神の言われる事を生きるか、神の言われた事とは違う事を
生きる選択をするのか、実を見て木を知る。
行動を見て、生き様を見て、その人が何を信じて生きて居る
のかが、分るのです。
生き様=自分の信仰の目で見える形の現れだからです。
耐えざる、神の言葉の選択と神の子の姿を生きる決断。
命を選ぶか、死を選ぶか。
命=神の言葉に植わり実の成る生き方か、
神の言葉に植わらずに、実が実らない生き方を選ぶのか。
行動、信仰、発言はどこも相反せずにエハッドです。
信じている事と、相反する事を人が生きるなら、
それは、矛盾していると言う事であり、違和感があり
その人の信条か、行動のどちらかを一致する様に起動修正
するのが、人の生き方です。
詰まり、信じてない事を生きる事は、出来ないからです。
又は、信じている内容が、神の言葉とはズレていたら、
それは、神の言葉、神の子の姿からズレた生き方を
してしまうと言う事でもあるのです。
だから、神の言葉=インストラクションに深く聞入り
理解する必要がある事は明らかなのです。
寝ても覚めても、何をしていても、神のトラーを
思いめぐらしなさいとある。
箴言も詩篇も預言書も、全部中身はトラー丸ごとです。
それ以外の教科書は、イスラエルには与えられていない。
福音書以降も全てトラーの内容のみが書かれているのです。
違う教えが出現したと言う人の教えに聞入り、
真実に幕がかけれているだけです。
続く