例えば、朝、目が覚めてから寝るまでの全ての行動を、
人間=誰かの指示する通りに行なわないなら、神に背いて
いると、教えられたら。
そして、言われた通りに、人が編み出した教えを、神の仰せ
だと思い込んでしまったら、日々のノルマをこなさないと
罪悪感を感じてしまう。
自分の中に暗い影を落とす。
それは本当に窮屈に感じませんか?
1000位の人の造ったルールを一日の中に、こなさなければ
ならないとしたら、どう感じるでしょうか?
神の言葉を生きる事は自由を、喜びを、開放を与えられる
事なのです。生ける水が、怒濤の様にその人の腹の底から
湧き出る様になるとイエシュアが言われた事とは全く逆の
事が起きて、喜びにフタがされ、喜び死滅する〜の世界に
突入してしまうのです。
詰まり、人は、神の許可した安全な境界線の中でのみ、
自分の選択で日々を生きれるのです。神の言葉があるのは、
まことの命を損なわれずに保護されて安全に生きるため、
喜びにフタをされないため、生き生き生きる命として造られ
た自分を損なわないためです。
そうではなくて、人がいちいち教えを作り出し、
誰かからそれを生きる様に強要されたら、どうでしょう?
嫌気さすと思います。そんな事位、自分で考えます、
自由にさせて下さいと言いたい。人の教えのノルマをこなす
事に、躍起になり、何が神の語られた言葉の真意なのか
分らなくなり、本末転倒の人生を送ってしまう事になります。
口頭トラーにある、人造の教え、日々のノルマがどんな事
かと言うと、こんな感じです。
例えば朝起きたら、東に向かい、3度頭を下げて、
ラヴィの編み出した決まった祈りをする。
ユダヤ教ではなくても、ある宗教グループの人達は、
起きる時間まで、人に指定するそうです。
イエスさまが早起きしていた記事が書かれた箇所読んで、
夜が明ける前に起きないとならないと言う教えを唱える。
イエシュアは毎日朝明け前に起きていたなんて書いてないし、
何よりトラーに朝は4時前に起きなくてはならないなどの、
教えは書いてないのです。
休暇なのに、何故朝3時に起床しなくてはいけないのか?
起床時間まで守る様似教えらてしまう。
出来るだけゆっくり寝て休む方が健全です。修行の世界。
学校の寮に住んでいたら、起床時間や食事時間、帰宅時間
など決まって居ますから、その様な規則がいやならば、寮に
住まなければ良いだけの事です。会社に勤めれば、出社時間
や、又は出張があれば出掛けなければならない。
それは、人から縛られているのではなく、社会の中で生きて
居るゆえに、報酬をもらうために拘束される時間があるのは
当然の事です。
人に拘束されたくない人は、起業したりする。
でも人の個人の生活の細部にわたり、宗教グループの人達が
どうして、他者の上に立って、くまなく指示を与える権利が
あると考えるのでしょう?
そんな事を、決してしてはならないのです。
人は人間の所有物、奴隷では無いからです。
プラス、神がそんな事言われていないからです。
口頭トラーのルールにはこんなものがあります。
朝靴を履くときは、右足から入れる。
それから左足。その後右の靴の靴ひもをひとつひとつ
静かに結んで左足に行く。サンダルだったらどうするの?
道ばたで異邦人や女性に会ったら、数メートル距離を置いて、
遠回りに道をはずれるとか。
そして、イエシュアも言われた、手洗いの儀式の話。
そんな手洗いの教えなどトラーに書かれてませんが、
1世紀の人達、今もですが、手洗いの儀式が編み出されて
いるのです。トラーには無い、人が造った口頭トラーです。
それには理由があるのですが。汚れた動物や汚れたものに
触った手で食べ物に触ると、その食べ物も汚れる、それゆえ
自分も汚れると信じていたからです。
だから、イエシュアはそんな事はない、人を汚すものは
人の中から出てくる”ずれた思想や行動”が人を汚すと
言われたのです。
手洗いの教え。ある決まった手洗いのジャーがあるのですが
そのジャーに入った水を、まずは右手に注ぐ。
そして左手に注いでと何度も交互に水を流して洗った後、
ラビの編み出した祈りをしないとならない。
夫婦の交わりは、子孫を造る以外は、禁止、駄目。
その夫婦生活の詳細まで指示され、その通りにしなければ
ならない。
もし風呂の入り方から、日本人で言えば箸の上げ下ろしの
細部まで、一日の生活、行動の何から何まで誰かの決めた
様に行動、動かなくてはならないと強要されたら、
どうでしょう?
女性は結婚したら、他の男性の目に魅力的に映っては駄目
なので、頭を丸刈りにさせられてしまう。
そして、カツラを被らせれるのです。悲しすぎる、女性に
対して、人権侵害の酷過ぎる掟です。
神の言葉を曲げる、ひねれば真実が破壊されてしまう。
人の編み出した教えによって、生きる事が非常に窮屈になって
行ってしまう。律法主義的生き方、全ては掟リストと化す。
やる、やるべからずリストを一日中こなす生活とは、
こう言う事でもあるのです。
自分のアプローチで神に近づくためにそれをする、生きる。
もっと込み入ると、自分の信奉しているラビの認める、
又は祈った食べ物では無いものは食べないとか。
飛行機に乗る時に、コーシェル食をオーダーすると、
誰それラビの祈ったものと書かれているのを見ます。
何の意味があるの?誰かに祈られたら、効果あるみたいな
どの宗教の世界の教えも似た様な事があるのです。
限りなく人間の縛りの教えが編み出されて行きます。
この様な人の教えに縛り付けられて、一日を過ごさないとなら
ないとしたら、普通なら気が狂いそうになるでしょう。
窮屈過ぎて窒息しそうだし、一日が楽しく無い。
人の教えに逆らってはいけないと言う事で、自分ががんじ
がらめになってしまう。本末転倒の世界です。
人の教えが人を縛り付ける。
しかも、1000位、この様な人の作り出した教えを一日の中で
こなさないとならないとしたら、もう止めます!と言いたい。
人の生活の細部まで、人が人をコントロールする教えがある
です。
その人が作り出したルール、人間解釈の口頭トラーを
イエシュアが正していた事実をきちんと理解すれば、
イエシュアは神のトラー=言葉を否定したのではなく、
人間が編み出した、トラーとは全く関係ない、神の言葉を
人の理解で解釈して編み出した、人間の教え=口頭トラーの
教えに対して、否定している、矯正している、正している事が
書かれている事が分ります。