ユダヤ人なら、普通の人であれどの部族出身か知っています。
ラビであれば、1世紀以前にまで遡りどのラヴィの弟子=生徒
であったのかまでも、はっきり分るそうです。
友人も、先祖はラヴァン ガマリエルに繋がる家系。
さて、ややこしい事は抜きにして、どんな教えで人が縛られて
しまうのかと言う内容の続きです。
まず、殆どのユダヤ人のラビ達やその弟子達が、何を学んで
いるのか?と言う事です。
イスラエルで見る黒装束を着ている人達は、トラーを学んで
いるのかと思っていましたら、実は、”タルムード”を主に
学んでいるそうです。
なるほど。トラーを学ばないで、人間の解説を学んでいる。
ラヴィの編み出した解釈を通してしか、トラーを理解出来
ないと考えているからです。
これでは、神の言葉の何が真実で、何が真実ではないのか。
分らなくなるでしょうね。
だから、タルムードには、ラビ何々がこう言う、ラビ誰それが
何何と言うと、書いてあります。トラーには、”神がモーセに
言った”と書いてあるのです。その違いが分ります。
神の直接の言葉なのか、人の言葉なのかの違いです。
ラビ達が、ラビの解釈でしか神の言葉を読む事を許可しないと
言う事があるそうです。
そうすると、本当はトラーに書かれている事と、ラヴィの
解説のコメンタリー=タルムードなどの口頭トラーに
書いてある事は違うと分っていても、表向きには、自分の
属するグループのラビの言う事を立てるそうです。
でも、生徒はラビの言う事を内心では、全く信じていない。
ラビの権威に逆らっては駄目だと教えられるからです。
ラビの解釈以外の聖書解釈をしては駄目だと言われるから。
宗教の世界は、どこでも同じと言う事なのです。
しかも、ラビなのに、”大祭司”である様な意識を持って
しまっているラビ達がいるそうです。ラヴィと祭司とでは、
任務内容も、役割も全然違うし、アロンの直系でも無いし、
今現在は、祭司が仕える場所である所の神殿が実際に
無いのです。未来は、第三神殿が建てられますけど。
神の権威を丸ごと頂いた意識を、あるラビ達は持ってしまい、
それ以上に、タルムード、口頭トラーの中には人間の解説、
解釈が、神の言葉より上の権威に座ってしまうような事まで
書かれているのです。
笑い話の様な本当の話が書いてあるので、又それもいずれ
記載したいと思います。神の言葉と人間の解説の間にズレが
ある。
今現在、大祭司や、祭司でも無いのに、祭司そっくりの服を
再現して着てテレビ番組をやっている人を見ましたが、
祭司の服は、祭司以外は着ては駄目=禁止なのです。
その意識とは、世の中に居る教祖様の意識に繋がると
思います。自分が神と同等だと思い込む事。
神では無いけれど、神に神の様な権威を人の上に振るう
事を許されている存在として、選ばれている思い込む事と
同じなのかなと思います。
さて、このタルムードだけを学ぶ人達以外に、
神のトラーだけを、神の言葉の真実として学び、
神の言葉だけに、忠実に立って、学び、信じている
ユダヤ人達も居るのです。
その意識の方が安全、健全です。、
その人達を、”ケーライツ”と呼ぶのです。
”Readers”読む人達と言う意味です。
古代の言葉で、トラー、預言書、諸書、それを忠実に学び、
読み、信じる人達。
詰まり、今の言葉で言うと、タナック=トラー、預言書、
諸書を書かれた通りに忠実に学ぶ人達。
モーセの五書を神の絶対の権威、真実として、
人の教えのタルムードと、神のトラーが相反したら
神の言葉の方を取ると言う信条です。当然なのですが。
神の言葉だけを絶対的権威と信じて取ると言う立場を
取る人達が居るのです。それが神の前にトーヴであり、
健全、安全です。神の言葉にマッチしない人の教えは所詮、
人の教えでしかなくて、神の真実と異なるからです。
ラビ達の苦しい、厳しい修行みたいな教えに辟易する
イスラエルの人達が大勢居ます。それゆえ、トラーを
学びたいと言う意欲が削がれてしまう。
神の言葉が窮屈なのではない、人の教えの重たい衣を
何重にも着せるから、人にはぴったり心地よい、
マッチする神の純粋で完全な言葉、仰せが、別ものの
苦しい教えに変身してしまうのです。
その人達は、ラビ達の教えになんぞ生きるのも窮屈なので
悲しいかな、シャバットも祝わないと言う人達が
イスラエルにも居るのです。
どうしてか分ります。シャバットに電気のスイッチには触れ
てはいけないとか、携帯にも触れないとか、テレビも見ては
駄目、あれ駄目これ駄目のルール満載。
トラーに書かれていない、人間の編み出したルール満載。
ありとあらゆる細かいルール、規定=人間の作り出した教えで
縛り付けられたら、そんな教えのがんじがらめを要求されたら、
もういちぬけた〜、窮屈な面白くも、楽しくも無いシャバット
なんてやりたく無い、面倒!となるのが当たり前の反応
なのです。いいかげん!うるさ〜い、止めて〜となる。
それは、神の言葉が人を縛っているのではないのです。
神の言葉=真理は人を自由にする。人を縛るのは、いつでも
人の造り出したルール、宗教的教え、宗教的ルール。
ケイライツの人が言いました。人のルールから飛び出れば、
本当にシャバットは、楽しいよと。
ラビのルールはずれて祝えば、本当にシャバットは楽しい
祝いの日だよ!と。
そうでしょう。誰でも親しい仲間との飲み会、宴会、
パーテイ、夜もふけるまで一緒に笑い、話し、祝う事は、
楽しいに決まってます。
心ゆくまで、食べて、飲んで、会話して楽しみ盛り上がる。
人の教えに縛られるから、神の特別に与えた楽しい日、
嬉しい事が苦行に変わるのです。楽しい事に水をさす。
さて、イエシュアが言われていた、人に足かせを着せて、
実際にはラビ達はそれをしないと、ある一部の
ラヴィ達を指して、忠告、指摘していた事ですが、
その内容は、次回へ。
続く