まことの命が守られるために書かれている事実だけから検証 コロサイ2:16 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

誰にも<神をも含めて>批判されず、神の言葉の仕分けは、

あなた自身に、全ての判断がゆだねられていると言う解釈が

されてしまう箇所。

神の言葉を一点一画でも退ける、排除する場合は、

全く人間中心の判断にゆだねられていると言う事になって

しまう事に気がつく必要があると思います。

 

全て創造物の発生は、”神”が源なのです。

人の、創造物の生きる全ての領域に関して、漏れなく神が

インストラクションを与えて下さっているのです。

人の生きる全ての領域、全ての詳細に関しての

インストラクションです。

どの側面でも、人間の自由に任される時代になった、

何でも許されている時代なのだと言う教えに基づけば、

それでは、神の権威はどこに?の世界に突入します。

安全な囲いが取れて、猛獣が羊の囲いに飛び込んできます。

 

どの箇所を読んでも、創世記始めの3章の中に戻り、

繋がります。

”神の与えたデザイン通り=安全な囲いの中での全てが

人の生きる姿、選択肢。

境界線があるその中のみでの全てです。その中だけでの、

全てが許されている。

全ての事はして良い=全て=神のデザインされた

人間の生きる実態の中での全ては選択出来る、

許可されている。

これを、今や免罪符、解毒剤があるので、何でもありなの

ですと考えるとするなら、それはとても危険な教えです。

愛=契約の愛=アハヴァは、安全地帯の囲い付きなのです。

それ以外は、境界線=神を飛び越えて死の領域だからです。

人を、危険=死=本来の姿からかい離する危険から守る

ための、制限区域表示があるのです。これ以上この囲いを

超えて行けば、放射能であなたの体は損なわれ死にますと

言う事と同じです。危険区域。臭い、色も、味もしないけど、

確実に危険、害毒、命を損なって行く。

その警告、表示が無いならば、それは人に関して、

無責任、無関心の神となってしまいます。

 

客観的に、理論的に自分に質問を投げてみる必要があります。

 

1 パウロは誰を擁護してこの書簡のこの2章の内容を書いて

いるのか?

2 パウロは、トラーをガードしない人達が、トラーを

ガードする群衆から批判されている事を擁護しているのか?

3 パウロは、トラーをガードするイエシュア信者達を、

トラーをガードして生きない群衆から受ける批判から守る

擁護しているのか?

 

重要な事は、パウロは、どのグループを擁護するべきなのか、

そのグループを擁護するために、何を基準に、何を評価基準、

判断のための拠り所として話しているのか?と言う事

まず、クリアーにしなければならない事です。 

パウロの教科書は、”トラー”のみなのです。

<預言書、諸書もトラーの解説です。>


ヘブライ人、トラーを100%ガードし生きている、神の前に

クリアーできよい意識で生きて居ること、トラーを

一点一画も違反していないという証を立てるために、

ナジル人の誓願を神殿でしたパウロ。<使徒21章>

カイザリアの議会の前で”パリサイの中のパリサイの子”と

宣言した<使徒23章>パウロであると言う事実を、

絶対に消さない、無視しないで考え続けてみて下さい。

 

そのパウロが、議会の前では、その場しのぎの適当な不真実

な宣言をし、その裏では二枚舌で、他の場所では別の事を

言う人だとするのでしょうか?それでは、パウロに対して、

パウロは嘘つき、不誠実な使徒と言うレッテルを貼る事に

なりますし、使徒としての役割は、神の前でトラーを否定、

拒絶した時点で失格、退去になるのです。

 

今や私達には、人間の判断により、神の言葉の仕分けの選択

の自由があるのですと、コロサイの2章でパウロが書き記して

いるのでしょうか?

 

昇天以降のイエシュア信者達=特に異邦人信者達は

食べ物規定に関して、又は神の記念日=モアデイム

レビ記23章新月、シャバットなどのイスラエルの神の

記念日を、個人の判断、選択で、大事か不要かと

自由に、仕分け、取り扱って良いのだと、

この箇所でパウロが教えているのでしょうか?

 

しかも、神の口から直接語られた、出た宣言は、神の記念日

を捨てる事は死に値するほど危険と言われたのです。

出エジプト 31:15

もしそれを、今はそんなのどうでも個人の考えで、

仕分けてねと神が言っているのだとするならば、どんどん

神の言葉の真実から離れて、矛盾だらけ、混乱の元

になってしまいます。

 

この様な考えが出てくるのは、一度や二度ではなく

長い歴史の中で、パウロが警告した様に、別の福音が出現、

何度も様々な西洋人により唱えられた、神学者の思想、考え、

発想が、人々の間に浸透してしまったと言う理由だけなのです。

神の言葉は不変だからです。神が神の言われた事を決して

変えないと言われる事を信じるのか、信じないのかだけです。

これは、又別の時に追記したいと思います。

 

聖書の解釈、解説が、神の言葉の真実=永遠不変、

永遠に固くたち、トラーは決して一点一画も変わらないと

言う前提から何万キロも離れてしまい、

ルカ16のたとえ話の様にいくら説得、説明しても

埋める事の出来ない深い広いギャップが出来てしまって

いるのです。

 

神の言葉は永遠に堅く立つと宣言しているのに、

後から神は考えを変えたと言う事にされてしまった

解釈の上にもられる解説では、真相、真実が

覆い隠されて見えなくなってしまっているだけなのです。

 

トラー、預言書、諸書をイエシュアそのものと

イエシュアが宣言した様に、救い主が、トラーの一点一画、

小さい飾り文字の果てまで取り除くなかれと、直接地上に

来られて言われた事を土台にして、

このコロサイの箇所を読むのです。

長くなるので、コロサイ2:16の解説は次回に。

 

なぜ神の言葉を曲げてはならないのか?

それは、人のまことの命が損なわれてしまうから。

神から隔たりの場所に飛び出てしまうから。

喜びが奪われてしまうから。

宗教に変身してしまうから。

フォーカスがブレてしまう。

真理は人を自由にする。不真実は人を不自由に

縛り付けてしまう。

 

何が大事なのかのフォーカスがぶれるから、

何かを必死でやりながら、自分の命、

夫婦の関係、家族の関係、大事な時間、

絆が一番最後の優先順位になり、損なわれて行く。

本末転倒な姿、デザインから外れた生き方をして、

人間の作り出した教えを元に生きたら、

違う意識で生きて、焦点=神の言葉の意図を

見失い、まことの命を損なわれてしまう事に

なるから。

 

続く