誰にも<神をも含めて>批判されず、神の言葉の仕分けは、
あなた自身に、全ての判断がゆだねられていると言う解釈が
されてしまう箇所。
神の言葉を一点一画でも退ける、排除する場合は、
全く人間中心の判断にゆだねられていると言う事になって
しまう事に気がつく必要があると思います。
全て創造物の発生は、”神”が源なのです。
人の、創造物の生きる全ての領域に関して、漏れなく神が
インストラクションを与えて下さっているのです。
人の生きる全ての領域、全ての詳細に関しての
インストラクションです。
どの側面でも、人間の自由に任される時代になった、
何でも許されている時代なのだと言う教えに基づけば、
それでは、神の権威はどこに?の世界に突入します。
安全な囲いが取れて、猛獣が羊の囲いに飛び込んできます。
どの箇所を読んでも、創世記始めの3章の中に戻り、
繋がります。
”神の与えたデザイン通り=安全な囲いの中での全てが
人の生きる姿、選択肢。
境界線があるその中のみでの全てです。その中だけでの、
全てが許されている。
全ての事はして良い=全て=神のデザインされた
人間の生きる実態の中での全ては選択出来る、
許可されている。
これを、今や免罪符、解毒剤があるので、何でもありなの
ですと考えるとするなら、それはとても危険な教えです。
愛=契約の愛=アハヴァは、安全地帯の囲い付きなのです。
それ以外は、境界線=神を飛び越えて死の領域だからです。
人を、危険=死=本来の姿からかい離する危険から守る
ための、制限区域表示があるのです。これ以上この囲いを
超えて行けば、放射能であなたの体は損なわれ死にますと
言う事と同じです。危険区域。臭い、色も、味もしないけど、
確実に危険、害毒、命を損なって行く。
その警告、表示が無いならば、それは人に関して、
無責任、無関心の神となってしまいます。
客観的に、理論的に自分に質問を投げてみる必要があります。
1 パウロは誰を擁護してこの書簡のこの2章の内容を書いて
いるのか?
2 パウロは、トラーをガードしない人達が、トラーを
ガードする群衆から批判されている事を擁護しているのか?
3 パウロは、トラーをガードするイエシュア信者達を、
トラーをガードして生きない群衆から受ける批判から守る
擁護しているのか?
重要な事は、パウロは、どのグループを擁護するべきなのか、
そのグループを擁護するために、何を基準に、何を評価基準、
判断のための拠り所として話しているのか?と言う事を
まず、クリアーにしなければならない事です。
パウロの教科書は、”トラー”のみなのです。
<預言書、諸書もトラーの解説です。>
ヘブライ人、トラーを100%ガードし生きている、神の前に
クリアーできよい意識で生きて居ること、トラーを
一点一画も違反していないという証を立てるために、
ナジル人の誓願を神殿でしたパウロ。<使徒21章>
カイザリアの議会の前で”パリサイの中のパリサイの子”と
宣言した<使徒23章>パウロであると言う事実を、
絶対に消さない、無視しないで考え続けてみて下さい。
そのパウロが、議会の前では、その場しのぎの適当な不真実
な宣言をし、その裏では二枚舌で、他の場所では別の事を
言う人だとするのでしょうか?それでは、パウロに対して、
パウロは嘘つき、不誠実な使徒と言うレッテルを貼る事に
なりますし、使徒としての役割は、神の前でトラーを否定、
拒絶した時点で失格、退去になるのです。
今や私達には、人間の判断により、神の言葉の仕分けの選択
の自由があるのですと、コロサイの2章でパウロが書き記して
いるのでしょうか?
昇天以降のイエシュア信者達=特に異邦人信者達は
食べ物規定に関して、又は神の記念日=モアデイム
レビ記23章新月、シャバットなどのイスラエルの神の
記念日を、個人の判断、選択で、大事か不要かと
自由に、仕分け、取り扱って良いのだと、
この箇所でパウロが教えているのでしょうか?
しかも、神の口から直接語られた、出た宣言は、神の記念日
を捨てる事は死に値するほど危険と言われたのです。
出エジプト 31:15
もしそれを、今はそんなのどうでも個人の考えで、
仕分けてねと神が言っているのだとするならば、どんどん
神の言葉の真実から離れて、矛盾だらけ、混乱の元
になってしまいます。
この様な考えが出てくるのは、一度や二度ではなく
長い歴史の中で、パウロが警告した様に、別の福音が出現、
何度も様々な西洋人により唱えられた、神学者の思想、考え、
発想が、人々の間に浸透してしまったと言う理由だけなのです。
神の言葉は不変だからです。神が神の言われた事を決して
変えないと言われる事を信じるのか、信じないのかだけです。
これは、又別の時に追記したいと思います。
聖書の解釈、解説が、神の言葉の真実=永遠不変、
永遠に固くたち、トラーは決して一点一画も変わらないと
言う前提から何万キロも離れてしまい、
ルカ16のたとえ話の様にいくら説得、説明しても
埋める事の出来ない深い広いギャップが出来てしまって
いるのです。
神の言葉は永遠に堅く立つと宣言しているのに、
後から神は考えを変えたと言う事にされてしまった
解釈の上にもられる解説では、真相、真実が
覆い隠されて見えなくなってしまっているだけなのです。
トラー、預言書、諸書をイエシュアそのものと
イエシュアが宣言した様に、救い主が、トラーの一点一画、
小さい飾り文字の果てまで取り除くなかれと、直接地上に
来られて言われた事を土台にして、
このコロサイの箇所を読むのです。
長くなるので、コロサイ2:16の解説は次回に。
なぜ神の言葉を曲げてはならないのか?
それは、人のまことの命が損なわれてしまうから。
神から隔たりの場所に飛び出てしまうから。
喜びが奪われてしまうから。
宗教に変身してしまうから。
フォーカスがブレてしまう。
真理は人を自由にする。不真実は人を不自由に
縛り付けてしまう。
何が大事なのかのフォーカスがぶれるから、
何かを必死でやりながら、自分の命、
夫婦の関係、家族の関係、大事な時間、
絆が一番最後の優先順位になり、損なわれて行く。
本末転倒な姿、デザインから外れた生き方をして、
人間の作り出した教えを元に生きたら、
違う意識で生きて、焦点=神の言葉の意図を
見失い、まことの命を損なわれてしまう事に
なるから。
続く