昇天以降は、神の言葉は自分の意見、好み、感覚、判断で削除、変形 仕分け許可? コロサイ2:16 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ5:17 

わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、

と思ってはならない。廃するためではなく、

成就するためにきたのである。

<廃するためではないと書いてある。

廃する、破棄する=当時のラビ用語=トラーを間違った

捉え方をして解釈し生きる。

成就=トラーを神の言葉の意図通りに理解して、

その通りを生きる。神の言葉通り、神のトラーの中身を

生きて教えるためにイエシュアは地上に来たと

宣言しているのです。

 

 5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの

一点、一画もすたることはなく、ことごとく

全うされるのである。

<細かい事は分らなくても、この箇所読んだだけで、

イエシュアはトラーを否定するなどと、無理な読み込み

解釈する方が無理な事が書いてあるのは明らかです。>

5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも

破り、またそうするように人に教えたりする者は、

天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、

これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と

呼ばれるであろう。

<世の中の長い年月伝統として根付いている教え=西洋神学

を根拠として語られている教えは、トラーを捨てろ、

古い教え=律法になど戻るなと教えているではないの

でしょうか?

イエシュアが決してするなかれと言う事を全面的サポートし、

宣言し続け、やっている。誰の思惑?と考えたら見えて

来ます。神の言葉を否定したい存在、トラーを捨てたい、

消し去りたい力がエデンの園からずっと存在している。>

 

ルカ16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者

<トラー、預言書>とがある。それに聞くがよかろう』。

 16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、

もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれ

ましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

 16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者

とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者が

あっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

詩篇 119:151 しかし主よ、あなたは近くいらせられます。

あなたのもろもろの戒めはまことです。

<もろもろ=コル=全て 戒め=ミツヴォテカ=トラーの

中に書かれている神の言葉の要素、構成=ミツボット>

119:152 わたしは早くから<永遠の中から、いにしえから>

あなたのあかしによって、あなたがこれを
とこしえ<オラーム=永遠>に立てられた<ヨサダタム>
固くフィックス、固定、確立、土台を据える>ことを
知りました。
 
申命記 29:29 隠れた事はわれわれの神、主に属する
ものである。しかし表わされたことは長く<永遠まで>
われわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの
“トラー”のすべての言葉を行わせるのである。
 
ここに書かれている事だけを読んでも、神のトラーは永遠に
堅く立ち、そして聖書記者達全員、トラーのみを土台と
して預言書も、詩篇も、諸書をも書いている事実があります。
全ての聖書記者は、”トラー”を100%書いているのです。
トラーを唯一の根拠、神の永遠不変の土台、言葉として
そこから全てを語っているその事実を知れば
クリアーに見えて来ます。神の言われる言葉の真実を
決して人の教え、解説、解釈、読み込み、思い込みで
薄めない事、変えない、ずらさない事です。
そうしないと、ルカ16の例えの様に、超えられないギャップ、
いくら話しても、説得しても、トラー、預言書を今信じない
拒絶するなら、その耳は何も聞く事が出来ないし、
神の言葉は、その頭脳には何も届かない、何も通じない
でしょうと書いてある通りになってしまうからです。
 
そして、コロサイの2章16の様な最も誤解され続けている
数々の箇所の一つです。

 

2:16だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、

あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも

批評されてはならない。

 

ルカの書いた記録にある、ペテロが幻を見た箇所、

使徒10章に連なり、パウロのコロサイの手紙の様に、既に、

読者には、神のトラーが終ったのだ〜とされてしまっている

箇所です。

使徒10は、以前にも書いた事がある箇所ですが、又追記

したい箇所でもあります。トラーは不変であるからです。

食べ物規定も変わらない。全ての汚物、毒、ゴミなんでも

処理する陸の掃除機、海、水中の掃除機として造られた

動物は、創造の始めから変わらないからです。

神が人間の食べ物として設定したものだけが、人間の食べ物。

人間の食べ物として害毒のあるものは、始めから害毒がある。

ゆえに、それらは”人の食べ物ではない”と神が言われた。

神の創造物は、進化、変化しないからです。

とてもシンプルです。神の言われる事だけを100%

然り絶対と認めれば良いだけ。神が駄目だよと言ったら、

危険だから駄目なのだと言われているのだと、細かい詳細は

分らなくても、まず素直に信じれば良いだけ。子供の様に、

親の言う事を素直に受け取る。

 

人間の食べものでは無い動物をリサーチすると、

驚愕の事実が出て来ます。これはまた別の時に書きます。

そして、神の宮であると宣言するなら、神の宮の中に

持ち込めない相応しく無い動物は、自分の中にも

取込めない、持ち込めないと分る。

神の宮の定義はトラーの中にその詳細が書かれています。

トラー以外に神の宮の定義などどこにも書かれて無いのです。

 

神の言われる事に異議ありと反抗したい願望、人の態度や

意識に問題があるのだと気がつけば良いのです。

なぜ神の言葉を受け取れない気持ちが自分の中にあるのか?

と問うてみる。又は神の言葉が終ったと信じているから

自分の感覚にそぐわない、いやな箇所は削除すれば

良いと考える。

自分の判断=自分が納得出来る事は良い、自分に馴染みない

違和感ある、だからしっくり来ない事は拒絶したいと考える

神の言葉を絶対としなければ、否定すれば、全て100%自分

が中心の発想が、どこかに潜んいる。

神の創造のデザインを、人がとやかく判定できる事では

無いからです。

陶器師と、陶器の関係を忘れるなかれと書いてあります。

 

コロサイ2章16も、パウロが、食べ物や、神の記念日の

セレモニーに関しては、イエシュア昇天以降は、全てその

個人個人、1人1人の意見、判断、感覚、チョイスでどの

様にしても構わないと、神が言って居るのだと言う誤解を

前提に解説され続けている箇所でもあります。

 

レストランのランチコースで、Aコース Bコース Cコース

自分の好きなものを選ぶ程度の軽い意識で、神の言葉を

有効、終った、古い教え、律法、無効などと仕分ける。

感覚のズレ、思考のズレ、トラー=的をずらしている。

 

神の御口から出た言葉。創造主であるお方の直接の

言葉をどう認識し、捉えているかの基本的姿勢、

意識、思考回路が重要問題なのです。

 

個人の好み、判断で神の言葉を仕分けて良いのだ、

神の言葉を選ぶか、退けるか、削除するか、終ったものと

するのか、自分の考えで神の言葉の信憑性、永遠性、

暫定性だと認定し選ぶのか、もう全く自由、

人間の判断に任されているのだと言う的外れな

誤解をされている箇所です。

 

続く