パウロは、トラーに100%忠実である事が記されている 使徒21 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、

あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、
子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと
言って、モーセにそむくことを教えている、ということで
ある。
21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、
彼らもきっと聞き込むに違いない。

21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことを

しなさい。

わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

 21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、

また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。

そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、

根も葉もないことで、あなたは”トラー”を守って、

正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

 

パウロは、エルサレムの神の宮でこうして、

誓願を立てたのです。

”ナジル人”の誓願を立てるという事はどんな事を意味し、

パウロは、神殿の中で長い期間、そして大金がかかる儀式で

何をしたのでしょう?

 

パウロは、100%トラーに忠実である事の証明を

するために、ナジル人の誓願を宮で立てたのです。

それが、どうしてパウロはトラーに反する教え、

トラーを破棄する教えを編み出した教祖様にされてしまった

のでしょう?人の教えで真実が塗り替えられただけです。

 

イエシュア昇天後に、ユダヤ人、そしてイエシュアを信じる

人達も、変わらずに”神の宮”でコバーンを捧げたのです。

生け贄を捧げる? こう言う箇所を読むと、トラーが終った

とする神学者の解説はこう言うでしょう。

イエシュアの血で全てが許されるのに、なぜ今更、神殿に

出掛けて、生け贄など捧げるのか?と。

動物の血は、罪の仮の許しでは無いからです。

動物の血は、罪を消さないと書いてある通りだからです。

これは、別のトピックなので書きませんが、

聖書を読むスタート地点が全く違うと言う事に気がつくと

分ります。

 

神殿での一連の行事、儀式は神の家に住まう人達の

生き方の凝縮版です。世界の中心で、イスラエルの神の

特長を地上でそのまま表す一つの国で、

一つの神の、一つの家に住まう、一つ大家族の生き方、

その”集大成”を目に見える形で表しているものだからです。

 

どの様に神に近づくか、関わりを持つのか、いかに修復、

和解するのか、全部神の家の中の儀式を通して

体験、学習する様に神がデザインされたからです。

人は、人と神と、又は人と人と和解する時に、そのような

場を設ける必要がある事は誰でも分る通りです。

しかも、許し、救い、購いの意味を、

五感で体感する事はインパクトがあるのです。

 

ここに書かれている事は、パウロのナジル人の誓願を

神殿でなした事実を通しても、トラーはイエシュア昇天後も

何も変わらずに全てが有効、ライブ、オンゴーイングで

ある事がはっきり書かれているのです。

書いてある事実だけに立ち、ずらさないで、考え続ければ

トラーを否定する、終らせた教えなど無い。

何も変わった教えなど書かれていない事は明らかに

読み取れて行きます。

 

21:25 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、

偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、

慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。

使徒21:26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、
彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの
期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を
報告しておいた。
 
使徒15章のエルサレム会議の決め事です。
これは、又別の時に書きたいと思いますが、
異邦人は、上記の4つだけ守れば、他全て解禁なんて
人の発想の解説を信じるならば、それは変?と思わないと
危ないです。
上記の4つの項目以外、異邦人はトラーレス、無法地帯に
生きても良いですよ、姦淫も、盗みも、偽証も、何でも
許されているなんて考える方がどうかしています。
 
使徒15章は、ユダヤ人と交わりを持とうとする異邦人、
特に食事の席での決め事なのです。
異教徒上がりの人達は、異教の神々の宮にも、親戚
家族の行事などでも入り続け、偶像に捧げられた汚れた
動物の血に触れたり、汚れた儀式に続けて参列していたり、
異教の神々の宮の神殿娼婦達と交わって居る様な不品行と
関わる事をしながら、ユダヤ人信者との交わりなど出来ないの
が理解出来きますねと言う教えです。
新参者のトラーを知らない人達は、とにかくこれだけ
まず知っていてと言う事。後のトラーのライフスタイルの
中身は、毎週トラー朗読を聞いて、ユダヤ人の先輩達に
トラーの中身を解説されて行けば、やがて気がつくでしょう
から取りあえず今はこれだけ分っていて下さいと言う事が
書いてあるのです。
そんな事すれば、コミュニティの交わりが汚れて、
ユダヤ人にどん引きされるからです。不快だからです。
お互いを侵害しないために、最低限の交わりのルールだけは
まず守って下さい。
汚れを持ち込むなかれが、交わりをするまずの
条件、それを打ち出しただけです。
 
日本人で言うなら、こんな感じだと分り易いかも。
イエシュアを信じながら、異教の神々の宮に詣でて、
汚らわしい儀式に参加しながら、後に平気で一緒に交わり、
汚れた物を平気で一緒の食卓に持ち込み食事をする事。
食卓で交わる時にルールを使徒15章で話して居る事が
分れば、理解出来ます。
でも、異邦人には、汚れた動物を食しても、
それが、トラーを生きるユダヤ人には、NG!
気持ちの悪い事だと分らない。
いや、血のしたたるネズミ、ミミズ、アルマジロ、ワニを
一緒に食べましょうと出されたら、日本人でもどん引きする
でしょう。それと全く同じ事なのです。
日本人の食習慣の中に無い食べ物だからです。
異教の神々の世界で暮らせば、その生活の全ては
異教徒上がりのものなのです。
レビ記11章も永遠不変の教えです。
神は、生活の全部の領域に対して、
私達が安全に守られるための、インストラクションを
与えているのです。
神が駄目だよと言われた事は駄目と素直に受けとれれば
安全に守られるのです。
神の言葉を捨て、退けて、トラーはある時点までの
仮の教えだとする人間の教えに聞入れば、
神が駄目だよと言われる声も全部遮ってしまい、
自分を危険な目に合わせると言う事を忘れて
はならないと言う事なのです。
神の基準ではなく、結局自分が中心、自分根拠の
判断、判定、仕分け、認証と言う自分勝手な
自分教信仰を自己満足を生きてしまう事になって
低温火傷の様に、危険に気がつかないまま行くという
事が起きてしまうのです。
 
続く