クリスチャンの信仰の本当の元の”ルーツ”は、ヘブライのイエシュア? ギリシャローマのジーザス? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀、パウロ達、使徒達が居た時代、

当時は福音書から黙示録は、まだ聖書として形をなしていない、

存在して居ない時代です。

しかも、福音書から、黙示録まで全て、トラーの中身そのもの

のコメンタリーであり、別種の新種の教えなど書かれている

と言う最大の誤解を解けば、聖書が一貫した永遠不変の

神の言葉である事が見えてくるのです。

 

世界には、聖書は神の言葉ではないとする、

神学者も多く存在して、その人達も神学校の講壇から

神の言葉を疑わせる教えを教えているのです。

そして、神の言葉を100%神の言葉と信じない人の

書物もたくさん出版されています。

人間の神学に基づいた、神の言葉から逸脱した教えの

本は世界に五万と流通していますし、本ではなくても、今や

ネットの世界で様々な”変形”ヴァージョンの教えは、

見聞きする事が出来ます。

 

でも、トラーの中身を知り、そして神の言葉は変わらない事実

を揺るがさない、そして、契約は一つ、人種により別々の

教えがある、時代ごとに変わる神の業と言う教えを捨てれば

細かい部分はまだ分らなくても、聖書が一貫して同じ書であり

中身は100%ヘブライのトラー=モーセの書を語っている事は

読み取れます。

 

世界にある様々な教えがあるのならば、一体誰を、どれを、

どの教えを信じたら良いのか?と迷ってしまうと思います。

もちろん、答えは一つ。”永遠不変”と言われた神の言葉

だけに戻り、神の言われる言葉だけを信じれば良いのです

人の教えを聞けば、かならずぐらつく。必ず神に対して

不信感を抱いてしまいます。自分の目でしっかり読む。

自分でしっかり、事実だけに基づいてとことん考え続ける、

調べ続ける、探り続ける、神に聞き続けて行くと言う事を

実行すれば良いのです。

 

そして、常に”神の言葉の事実”だけに戻り、そこから検証

すると言う事を、自分でして行けば良いのです。

世界には事実、真実に基づかない事から語られ続け、

不真実を元に検証され、解説されている事がある事を

まず知れば良いのです。

”進化論”と同じく、普通の頭脳で考えたら分る事が、

分らないほど、騙されて真実からはぐらかされ

鈍い思考、盲目になってしまうから。

トラックの様に、又はスカイツリーや高層ビルの様に、

何トンもする重いものを引きつける力が働いているのに、

なぜ蚊や蝶は飛べるのか?人はジャンプ出来るのか?

 

疑問は、真実発見に繋がるものです。

疑問を持つ、質問する事は本当に大事な事なのです。

 

もちろん、福音書から黙示録も霊感によって

書かれました。そして福音書から黙示録も100%

トラーの中身のみが解説されているのです。

トラーの短いコメンタリーです。だから聖書の三分の

1の分量しか占めていないのです。考えて見れば分る。

重要だから最初の部分は、聖書の三分の2も占めている。

 

聖書のどの箇所も何もトラーに反する教えなど、

新しい教えなど、新しい別の契約など書かれていないのです。

イエシュアを救い主と信じない、現代のトラー学者達、ラビ

達が、マタイから黙示録を読めば、そこに書かれている

”イエシュア”は、トラーの中身を語っているラビである、

トラーを、反対、否定するどころか、人々がトラーに戻る

生き方に戻れと、トラーを支持している事が、

書いてあると皆言うのです。福音書以降を読んだ事の無い、

イスラエルの友人の親友であるラビもそう言っていましたし、

ネットでも、その様に宣言する多くの人達が居るのです。

 

そうして、ラビがイエシュアに出会ってしまう事が、

世界中で起きている。イエシュアに出会った後は、隠れ

イエシュア信者になり、極秘ですが。何故なら、殺されて

しまうからです。

 

内容を逸脱しないで、書いてある文脈を外さないで

聖書を端から端まで読めば明かに、トラーと同じ内容が

一貫して書かれている事が、読み取れますし、原語に戻れば、

そして様々な情報、背景を知ればそれは明らかに永遠に

変わらない神の言葉の解説である事が、読み取れるのです。

 

問題は、神の言葉、契約は、2000年前で終ったと

教えられているから、トラーの中身を本当

には学ぼうともしないと言う所にあるのです。

終った教えならば、学ぶ必要無しと考える方が

妥当だからです。だから殆どの人は、福音書以降しか

読まない。

この商品券はもう期限切れで使えなくなりましたと言われたら、

引き出しの隅に放置するか、ゴミ箱に捨てるでしょう。

それと同じ。意味なし、価値無しになるから無用、触れない。

 

だから、トラーに書かれている本当の意味も、隅々まで

学び続ける事をする人も余り居ないし、だから、その中身を

教えられた事もないし、教える事の出来る人も居ないと言う

現状が問題なのです。教師が居ないのですから、誰に聞いたら

分るのか?探しても見つからない。

私の長い信仰の旅路の中で、ヘブライ聖書の中身を質問

出来る人は、10年前まで誰一人として居なかったのです。

なぜだろう?イエシュアはヘブライのイエシュアなのに、

と今は分ります。英文学を学ぶのに翻訳書から

しか学べないと言うのと同じ状況だったわけです。

 

でも、言える事は、トラーの中身はまばゆい宝、

感動の宝庫、毎日”わお〜!”と発見、感動に繋がる、

すごい事が書かれていると言う事だけは、

100%宣言出来ます。神の言葉は”命の力” ”力の源”。

天から下る命のパン。人の存在を根から支える水。

神の言葉を捨てれば、それはそっくり祝福を捨てるのと

同じ事なのです。そして、トラーを学べば、福音書から

黙示録までが、もっと見えてくる。なぜなら、その中身は

トラーそのものの短い版が書かれているからです。

イエシュア=肉体を取って来られたトラーと1ヨハネで

書かれているその事が見えてくる。

感動、喜びが継続しない、パッションがあせて行くのは、

愛する人の言う言葉が聞こえないから、耳に届かない。

あの愛する人の言葉を読んだ感動、その本当の意味が分れば、

感動せずには、いられないはずなのです。

愛する人の言葉が全存在に浸透して、喜びで満たされ続ける。

神の言葉とはまさにそう言う性質のものです。

全て造られたものが、ひざまずくとはその事です。

光に打たれて、神の実態で満たされたら、地=造られた、

エッセンスとピッタリ、地に伏してしまう。

 

それが、この水を飲むものは渇く事が無い、腹の底から、

怒濤の様に湧き出てくると言われたイエシュアの

語られた信じる者の実態であるのです。あれは、只の

リップサービス?理想像?叶わぬ実態?絵に描いた餅?

いや、命の力の源=神の言葉を捨てたら、迷い出ると

あるその通りです。

神の言葉、仰せは、”絆”と書いてある様に、神の言葉で、

人をしっかり神に引き寄せるものなのです。

感動から出る、神の言葉のとりこになる、魅了されて

探り続けないではいられなくなるから。その様に

デザインされているからです。

 

それは、義務からではなく、そうせずにはいられない、

感動、パッションから出て来るものなのです。

喜びから出る行動なのです。愛する人の言う事を慕わしく、

求めずにはいられない、知りたくてたまらないと言う、

飽くなき願望、欲求が泉の様に内側から

湧き続けてくるから。

色あせない、廃れない、日々新しい感動をもたらして

下さる、神の言葉=イエシュアそのものを

体験する事だから。

 

続く