”トラー”トラーを元に書かれた預言書、諸書も
永遠不変の神の言葉です。
古代の預言書、ダビデも、預言者達も、トラーのみが
辞書、教科書。それ以外の書など無いのです。
トラーの中身を解説しているだけです。
もし、神の言葉の最初の三分の2の内容、
それらが全て消え去る、イエシュアが来られた後は終わり、
破棄されたと言うローマの造った教えに基づけば、
将来に対しての預言も全部意味無しで、崩壊するのです。
そうすると、預言書に書かれた内容は、全く意味の無い
信憑性の無い、神の真実ではないと言う事を言って居るのと
同じであり、それらは真実な神の永遠不変の言葉では無いと
言う人間定義になってしまうのです。
人の教え=神の言葉に手を加える作業をすると言う事は、
創造主と言う絶対的な神の存在、現実を忘れ、
自分と同等の只の近所の知り合い、友達程度の位置、
場所に神を引き摺り下ろしているのです。
創造主=陶器師と、陶器師に造られた”器”=作品=人である
事をすっかり頭から抜けてしまった。
器が陶器師に向かって物申す。
神の言葉に人間が手を加える、一点一画でも変える事を
するならば、神の言葉は、積み木崩しの様に、
全部崩壊してしまう事も可能なのです。
実際に、神の言葉は崩壊しませんし、人が、誰がなんと
定義し、判定しようとも、神の言葉の定義は神御自身の
口から、はっきり”永遠不変の言葉” “契約”と
発表されているので、崩壊、削除などしません。
読み手に取って、神の言葉は意味の無いものになって
しまうだけです。その人の中にある信条により、神の言葉を
仕分けて行く。意味の無い終った教え、言葉なら、
神がどう語りかけて来ようとも、その頭脳には、
は神の言われている言葉、声が頭上を、
全部素通りして行く事になるのです。
終ったと拒否して受けとらないからです。
良い地=トーヴの地=神の意図通りの頭脳の中に、
に落ちない種=言葉となり、根が枯れて実がならないと
言う現状に陥る事が書かれています。
将来イエシュアが再び地上に来られた後の預言が
書かれています。
神は一体何と言われているのでしょう?それだけが
重要な事なのです。人の教えなど枯れて、羽のごとく神の
前に意味の無い重さ、価値なので消え去りますが
神の言葉は永遠に固く立つのです。
イザヤ書66:17
「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、
その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみ
を食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
66:18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。
わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。
彼らは来て、わが栄光を見る。
66:19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、
のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、
よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが
名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々に
つかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。
66:20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って
主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとく
もろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、
わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」
と主は言われる。
66:21 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、
レビびととする」と主は言われる。
66:22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、
あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
66:23 「新月ごとに、“シャバット”ごとに、
すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
そして、同じ事、同じ将来の預言がゼカリヤ書にも
書かれているのです。
ゼカリヤ 14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの
残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、
仮庵の祭を守るようになる。
そして何と書いてあるのか。シャバットは全てイスラエルの
神の家に接ぎ木されたものたちの”記念日”と書かれています。
イザヤ56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、
「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。
宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」
と。
56:4 主はこう言われる、「わが安息日=シャバットを守り、
わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にも
まさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、
とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、
そのしもべとなり、すべて安息日=シャバット=第七日目を
守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
仮庵の祭りとは、一年の最後を締めくくる一番大きな祭り
です、まさに、仮庵はイエシュア御自身なのです。
神の中に住まう人々。そして、神の記念日、祭りは、
レビ記23章全て丸ごとワンセットです。
しかも、”主の日”と聖書で書かれている事は、まさに
シャバット、神の記念日、神の来られる日です。
そして、その基本中の基本が、祭りと祭りを繋ぐ
シャバット、週の一度の神の記念日なのです。
この日は、いつか神が指定しているのです。
第七日目です。
コヘレトの書7:29 見よ、わたしが得た事は、
ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に
造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。
ここに書いてある事は、神は人を神の意図通り曲がらずに、
神のデザインした意図通りに真っすぐ生きる様に造られたのに、
人は自分の作り出した、発明した、編み出した教えを
探し求めて出て行ったと原語では書いてあります。
それぞれの目に叶う所を求めて行ったと。
その通りの事が歴史の中でずっと繰り返し起こっています。
歴史の途中で、異邦人により神の言葉、トラー、契約が
捨てられた。始めは小さなズレが果は360度全く
違う場所に出て行ってしまうと言う事が起きているのです。
そして、44000万以上の教えに分裂して行く。
360度、隣同士近い様で、全く性質の違うものに変身。
神の言う通りなど関係ない、今は神の言葉の大部分は
試合終了になったと言う教えがそれです。
続く