神の記念日は神が日時を指定して永遠に変わらない エデンの園から未来まで同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

”トラー”トラーを元に書かれた預言書、諸書も

永遠不変の神の言葉です。

古代の預言書、ダビデも、預言者達も、トラーのみが

辞書、教科書。それ以外の書など無いのです。

トラーの中身を解説しているだけです。

 

もし、神の言葉の最初の三分の2の内容、

それらが全て消え去る、イエシュアが来られた後は終わり、

破棄されたと言うローマの造った教えに基づけば、

将来に対しての預言も全部意味無しで、崩壊するのです。

 

そうすると、預言書に書かれた内容は、全く意味の無い

信憑性の無い、神の真実ではないと言う事を言って居るのと

同じであり、それらは真実な神の永遠不変の言葉では無いと

言う人間定義になってしまうのです。

 

人の教え=神の言葉に手を加える作業をすると言う事は、

創造主と言う絶対的な神の存在、現実を忘れ、

自分と同等の只の近所の知り合い、友達程度の位置、

場所に神を引き摺り下ろしているのです。

創造主=陶器師と、陶器師に造られた”器”=作品=人である

事をすっかり頭から抜けてしまった。

器が陶器師に向かって物申す。

 

神の言葉に人間が手を加える、一点一画でも変える事を

するならば、神の言葉は、積み木崩しの様に、

全部崩壊してしまう事も可能なのです。

実際に、神の言葉は崩壊しませんし、人が、誰がなんと

定義し、判定しようとも、神の言葉の定義は神御自身の

口から、はっきり”永遠不変の言葉” “契約”と

発表されているので、崩壊、削除などしません。

 

読み手に取って、神の言葉は意味の無いものになって

しまうだけです。その人の中にある信条により、神の言葉を

仕分けて行く。意味の無い終った教え、言葉なら、

神がどう語りかけて来ようとも、その頭脳には、

は神の言われている言葉、声が頭上を、

全部素通りして行く事になるのです。

終ったと拒否して受けとらないからです。

 

良い地=トーヴの地=神の意図通りの頭脳の中に、

に落ちない種=言葉となり、根が枯れて実がならないと

言う現状に陥る事が書かれています。

将来イエシュアが再び地上に来られた後の預言が

書かれています。

 

神は一体何と言われているのでしょう?それだけが

重要な事なのです。人の教えなど枯れて、羽のごとく神の

前に意味の無い重さ、価値なので消え去りますが

神の言葉は永遠に固く立つのです。

 

イザヤ書66:17

 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、

その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみ

を食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

66:18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。

わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。

彼らは来て、わが栄光を見る。

 

 66:19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、

のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、

よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが

名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々に

つかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。

 

66:20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って

主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとく

もろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、

わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」

と主は言われる。

 

 66:21 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、

レビびととする」と主は言われる。

 

66:22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が

わたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、

あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。

66:23 「新月ごとに、“シャバット”ごとに、

すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。

 

そして、同じ事、同じ将来の預言がゼカリヤ書にも

書かれているのです。

 

ゼカリヤ 14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの

残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、

仮庵の祭を守るようになる。

 

そして何と書いてあるのか。シャバットは全てイスラエルの

神の家に接ぎ木されたものたちの”記念日”と書かれています。

 

イザヤ56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、

「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。

宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」

と。

 56:4 主はこう言われる、「わが安息日=シャバットを守り、

わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

 56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にも

まさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、

とこしえの名を与える。

 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、

そのしもべとなり、すべて安息日=シャバット=第七日目

守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

 

仮庵の祭りとは、一年の最後を締めくくる一番大きな祭り

です、まさに、仮庵はイエシュア御自身なのです。

神の中に住まう人々。そして、神の記念日、祭りは、

レビ記23章全て丸ごとワンセットです。

しかも、”主の日”と聖書で書かれている事は、まさに

シャバット、神の記念日、神の来られる日です。

そして、その基本中の基本が、祭りと祭りを繋ぐ

シャバット、週の一度の神の記念日なのです。

この日は、いつか神が指定しているのです。

第七日目です。

 

 

コヘレトの書7:29 見よ、わたしが得た事は、

ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に

造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。

 

ここに書いてある事は、神は人を神の意図通り曲がらずに、

神のデザインした意図通りに真っすぐ生きる様に造られたのに、

人は自分の作り出した、発明した、編み出した教えを

探し求めて出て行ったと原語では書いてあります。

それぞれの目に叶う所を求めて行ったと。

その通りの事が歴史の中でずっと繰り返し起こっています。

 

歴史の途中で、異邦人により神の言葉、トラー、契約が

捨てられた。始めは小さなズレが果は360度全く

違う場所に出て行ってしまうと言う事が起きているのです。

そして、44000万以上の教えに分裂して行く。

360度、隣同士近い様で、全く性質の違うものに変身。

 

神の言う通りなど関係ない、今は神の言葉の大部分は

試合終了になったと言う教えがそれです。

 

続く