全楽章奏でる様に造られた”神の交響曲”は神の家族全員で奏でる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットを再び迎えた第七日目が来ました。

シャバットは、聖書の中では”第七日目”とはっきり記されて

居ます。他の日は誰がどんな解説をしようとも、シャバット

とは異なるのです。シャバットは週の第七日目だけだから。

 

2000年以降、この日=神の定めの日=安息日=シャバット

=止まる日が変更になったと、聖書のどこにも書いては

いないのに、神の言葉は変更したとする人間の教えを、

4世紀以降取入れて以来、神の言葉が変えられたものとして

全世界に浸透しましたが、確かに神は神の言われた言葉を

変えてなど居ないのです。神は不真実なお方ではないのです。

 

神が永遠不変の定めの日=イエシュアそのもの=福音の

中心を生きる日をレビ記23章に記しており、

マタイから、黙示録の記録の中にも、誰一人神の記念日、

レビ記23章を変えた教えを教えていない事が書かれています。

ぜひ、1人1人が自分の目で、しっかりと聖書を読み、

自分の目と頭脳で確認、確かめて神の言葉を認めたら

はっきり分かる事なのです。

 

そして、もうすぐシャヴオートが来ます。

これも神の定めの日の一つです。都上りの祭り。

今年は、5月19日 土曜日日没から21日、月曜日日没まで。

土曜日日没もシャバット、そして日曜日日没もシャバットで

閉じると言うのが、神の定めた祭りの祝い方なのです。

シャヴオートに向けて、今穂を数える7週の中に居ますが、

これは、別の記事に書いてみたいと思います。

神の記念日は、まさにイエシュアそのもの、

完了の業=福音の中心を教えているのです。

 

そして、今週のトラー朗読箇所は、レビ記 21:-24:23。

神の記念日の事もこの中に書かれています。

この中にはたくさんの事、神の教えが詰まっています。

次世代へ、子供達へ神の似姿に造られた人の生き様を生きて、

教育して教える重要さがしっかり記されています。

そして、それらは、全て神の御口から直接語られた言葉なの

です。

 

神の口から出た言葉全ては永遠に不変です。

この重大ポイントを理解するだけで、たくさんの神の真実を

理解出来る扉が開いて行きます。

 

もし、神の言葉を、どの箇所でも捨てるなら、

それはイエシュアの手足胴体をもぎ取って行く事と同じです。

自分の体の一部を少しでももいだら、機能しにくい事は

分かると思います。

例えば、足の親指が無かったら、本当に歩きにくいのです。

 

網戸で言うなら、たくさんの穴が空いて、害虫が部屋に

侵入してくる。

安全な家の囲いにも穴が空いていれば、外敵や危険な動物が

入ってくる。

壊れたガードレールからは、暴走する車が突撃してくる。

それと全く同じです。

トラーは、神の婚姻契約は人の命を保護するもの、

神にしっかり繋がれるための絆なのです。

 

神の造った交響曲は全楽章合わせて1曲なのです。

特に、聖書の最初の5書は、曲のテーマ、中心なのです。

その中の一部だけを奏でてても全貌は分からない。

神の言葉は、創世記から、黙示録までで一つの書。

その中身は、全く同一、相反する、互いに矛盾し合う事は

只の一つも書かれていないのです。

神が神御自身の言葉を否定する、取り消すなら、

そのようなイスラエルの神像でしたら、その神は

大変矛盾した方であり、嘘つきで<永遠不変と言いながら、

後で取り消しと言う嘘を言う>信頼に値いしない方と

言う事になるのです。

私達異邦人への約束も、神の気分次第で変更するかもねと

言う事です。

 

又は途中で、教えや契約や、約束が決して変わらない事。

変わったら、契約書は丸ごと書き直されなくてはならない。

只只直接、言葉を読めば、分かるはずです。

人の教えを通し考えるから、2000年以降は変わったのだと

思い込まされているだけなのです。

誰の言葉に、教えに聞入っているのか、

自分で確認すれば、真実は見つかります。

神の言葉の中にはっきりと書かれているからです。

 

聖書を曲げて解説する人間の教え、神学を通して

神の言葉を理解しようとするから、オリジナル聖書に

書かれている事が、目の前に書いてある通りに、

読み取れなくなっているだけなのです。盲目、ブラインド。

例え、どんなに長い歴史の中で、どんなに多くの人に信奉

されている教えでも、神の真実では無い教えは、

無数にありますし、その教えを信じる人間の数で

神の言葉の真実が判定されるわけでは無いのです。

 

そして、終ったと思い、読まずに学ばずに居る聖書の箇所に

実は神の子らへのアバ父の麗しい、美しい宝、生き様、

教え、永遠の価値に匹敵するものが書かれている事を

必ず発見出来ます。

 

西洋宗教の世界は、”救い主”を伝えるノーハウや方法を

たくさん考えて、試行錯誤編み出していると思います。

でもその先き、神に造られた”人”とは何か?

自分の本当のアイデンティティとは何か?

神が造られた男女、夫婦、家族とは何か?

人はどう生きるのか?どの様に人と人との関係を結ぶのか?

どの様に過去の傷を修復するのか?

どの様に神との関係を結ぶのか?何で生きて居るのか?

どの様に”喜び満ち満ちて、溢れ出て生きれるのか?”

それを知る人は多く居ないかもしれないと思います。

 

宗教活動する様に教えられる事はあっても、

命を生きると言う面に対して、殆ど教えてもらえない、

御手本が無い、知らないまま、

教えられないままだと思います。

 

それは、トラーに書かれている神の造られた”人間”と

人の生きる全てを、捨てて読まない、学ばない、

知る必要が無いと考えているからです。捨てたら分からない

のは、言わずと知れた所です。

 

続く