エデンの園の中から、はじめから”神に言われて”いた事は、
”命の木以外からは食べないで”と言う事。
知識の木以外、エデンの園の中にあるものは、
神の言われたものの中でなら、何でも食べてよいと。
神に言われた通りの囲いの中でならなんでも食べて良い。
安全だから。神が駄目と言ったものは、人の食べ物ではない、
”毒”だから。地の掃除機、海の掃除機=汚れたもの、
ゴミ、毒を吸い取るものだから。とても単純。
神の似姿=神のエッセンスに純粋=ピュアにピッタリに
沿った状態の、思索、言動、行動。
神の言葉、言われた事の中にだけ留まり続ける。
完全に神の御旨の中にすっぽり安全に留まっている状態は
安全。神の言葉=声の下で神の言われる通りを
神の中で聞いている状態は、神の意図通り。
又は、人の行動や言動も、その時、その相手に、
ピッタリ合った事を提供しなくては、
いくら正しい事でも、不適切、不具合が生じて、
ずれてしまう。
又はその伝え方、態度、マナーがまずい場合は、
又ずれてしまう。
相手に、トーヴ=神の意図通りをする事。
自分の動機が基準ではなく、神に言う通りにする。
神の言葉の通り。
”神の似姿=エッセンス”にピッタリ沿った事=神の御旨
にぴったり合っている場合は、ズレないと言う事なのです。
神の言われた通り、言われた時に言われた通りを生きる。
イエシュアが言われた事、行動した事の基本は何か?
父が止まったら止まり、父が語ったら語り、父が黙したら
黙する。父から離れて何もしない、出来ないと言われた通り。
父の指示から外れて行動しない。
天の現実を一瞬一瞬キャッチし続け、生きる。
神の言葉の中で、意識を張り巡らせている状態。
荒野を付いて来た雲と火の柱と同じです。
雲の柱が止まったら止まる。動いたら動く。
天の現実をそのまま反映して生きる練習を、皆が一緒に
した事は、後の人達へのメッセージでもあるのです。
神が言われた通りを生きる事を訓練させられ、
教えられているのです。
しかも、イスラエルの神だけが、他の神々と違う事を
言っているのです。
”わたしの言う通りにして下さい。”と。
自分の悟り、考えではなく、”わたしの言葉”通りにしてと。
他の神々は人の動機、発想、努力、神々に対しての
思い入れや、熱心さが何より大事でカウントされると
するけれど、イスラエルの神は、
”わたしのインストラクション通り、言った通りに
してください”、”言われた事に忠実に”と、
はっきりクリアーに人々に宣言しています。
モーセが天の領域で見た”神の家”を、
その通りに地上で、忠実に、そっくりそのまま、
どこも合い違えず再現するように神から言い渡されたのです。
勝手にアレンジ、変えては駄目と。
神の言葉を、一点一画も変えては駄目と。
聖書の至る所に書いてあります。
はじめのはじめに”命の木”からだけ食べて。
知識の木からは食べてはだめ。
それ以外の全ては、食べる事を許されている。
私達人間が、安全な境界線の中に守られるためです。
その境界線は命と死を分ける安全柵なのです。
一歩飛び出れば死。安全な囲い=神のインストラクション
言葉の中に留まるのなら、安全=命を生み出す生き方に
繋がり、留まれる。
些細な事に見える、思える事。食べる事が重要厳重忠告
だった事に目を留めたら分かる。
神の言われた通りを、神の言われた方法だけで
行なうと言う基本中の基本が欠けていると
書かれています。
マタイ7:21−23
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな
天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の
みこころを行う者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、
あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって
奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。
不法=<トラー無し トラーから外れて生きる事>を
なす者ども。わたしから離れて行け。』