神は全ての人を、神の中に、人の本当の姿に戻る
様に引き寄せて居るのです。
その生き様が、”トラー”永遠の婚姻契約の中に記されている。
トラーは、”義”とされるとか、救いを得るとか、
神に喜ばれるとか、認められるためにあるのではないのです。
これが大きな誤解を生み出す、人造神学。
義とされている事実は、”神の完了の業”で一方的に
与えられたもの。
”義”とされた事をあなたは、受け取り生きますか?と
言う事と、その後、婚姻契約の命に参加するかしないかは、
その人次第。嫁ぎましたが、嫁ぎ先の家の仕来りなんて、
異文化、異物にしか聞こえないし、そんなの実家では
やるもんではないので、受け付けません、無視します。
自分の思う通りに、受けとれる部分だけします。
それ以外は、納得出来ませんから、無視します。
旦那さんの言う事なんて聞きませんと言うのか、
それとも、新しい家の家訓に馴染むのか?選択はその人次第。
その違いがあるのです。
この家族の中で、家族の一員として生きるなら、
イスラエルの神の家族のデザインに沿って生きて
下さいとアバが言われた。それが、神のデザインされた
人間の姿、関係の姿だからです。
私はそれに同意しませんと言うならば、圏外に飛び出す。
簡単な事です。日本と言う国に生きるなら、日本の国の
ルールで生きて下さいと言われて、反抗するなんて事
しないのです。
そのルールは、”人の命”を守るためのもの。互いに侵害しない
ためのものなのです。
人間の作り出したルールは、トラーとはズレてもいますから
比べられませんが、考えてみたら分かります。
神の子らのデザインは、神がデザインされたもの。
同じ一大家族は、どの様に生きるのか、人間のデザインが
綴られているもの=婚姻契約なのです。
神の家の祭壇は、”礼拝”と訳されているそのエッセンスの
中心。
そこへ、”引き寄せる”=生け贄と訳されている
コバーンが持ち寄られる。
全ては、神に造られた人達が、神の似姿にされている事実
に、引き寄せる神の業=完了の業が語られています。
その中心は、自分、夫婦、家庭です。
神の声に応答する人達。
これが壊されたら、どんなに社会で成功しようとも、
虚しい。悲しい、寂しいでしょう。
本来のデザインから外れたら、痛いから、悲しい、寂しい。
神のデザインされた命=ナファーシュ=安息に入る関係が
分からなければ、人はずっと探し続ける。彷徨い続ける。
自分が神の似姿にされた人、完了の業で本物の自分が
今既に取戻されている事が分からなければ、安堵出来ない。
本当の自分が”何ものであるのか?”、偽の自己像を信じ
続けている場合は、決して安息、安堵出来ないからです。
人は、神の真理の中以外に存在出来ない様に
造られているから。
だから、偽の自己像を信じ続ければ、本物の自分を、
ずっと、探し続けてしまうのです。晩年まで、
いや一生を、自分探しのために時間を費やしてしまう例が、
トラーに数々書かれているのです。
本物の自分に出会いそれを生きるスタートの戸口に
辿り着かないまま。二心とはまさにそれです。
又は要らない努力をして、完了の業を信じず、
死んだ自分をやっとこ修理し続けると言う、
自分を別の教えの牢獄に閉じ込め、人間の教えに沿って、
そのズレを修正する事をし続けてしまう。
でも、人が出来ない事、神がなして下さった。
それが神の完了の業。
人には信じがたい事が、聖書には書かれているのです。
本物の自分=神の似姿の人は既に取戻されている現実が、
はっきりとトラーに書かれています。
そしてその事実を、今生きる事が出来ると書いてある。
モーセ以外の人達が、シナイ山で神の声が聞こえなかった
理由でもあります。
圏外に居れば、神の声が恐ろしい雷、険しい騒音にしか
聞こえない。でも神の中に存在していたモーセは、
ちゃんと神の声をキャッチしていた事実が書かれています。
将来手に入れるものではない。
様々な妨害に囲まれているけれど、実は神の子らの現実は
”今神の中、天の現実の中に、感じないけれど、
存在している。”
まさか〜と思う。でもそう書いてある。
神が言われる言葉だけに注意を向ける。
自分の感覚、悟りに頼らないでと言われている。
神が言われる事。人間には到底、すんなり簡単には、
納得、理解出来ない事だから。
でもそれを、信仰で受けとり生きる事が出来る。
まだ見ぬ現実でも、事実は事実、そしてそれが現実。
それを既に受けていると信じる事が信仰と神が
言われたのです。
同じルート文字で表される、同じエッセンスを共有する
言葉。
信仰=エムナ エメット=真理 アーメン。
アーメン=人の教えや、考えに同意する事ではなく、
神の言葉に同意すると言う宣言。
神の真実ではない事に同意する事は、
イスラエルの神への信仰、真理 アーメンには繋がらない。
神の言われるその通りに対して、宣言する事。
そして、シャバットは、神の創造された日。
その日に、神の言われた通りを生きてみる。
止まる。自分のために止まる。
家族のために止まる。
そして、シャバットは、互いに祝福を祈る。
これが、とっても凄い事だと分かる。
互いの存在、命へ、祝福、そして命へ乾杯と
宣言する日。
Shabbat Shalom


