義や、救いは、人が決して自分の努力では得られる性質
類いのものではないと、神の言葉の中に書かれています。
人間がどんな方法かで、義、救いを得られるのだとしたら、
イエシュア=永遠から完了の業など不必要になります。
トラーを生きる人は、律法主義だ〜と言う、
人間の教えがあります。
トラーを生きる事で、行いによって、義を得る事だと
書かれていると、勘違いしているからだと思うのです。
いや、トラーを生きる事で、義を得ようとしていた、
ずれた人達に対して、イエシュアも、パウロも忠告
しているのです。トラーを生きる上での、
用途、目的、動機がズレていると言う事が、
書かれている事を知れば、クリアーに見えます。
義を得るために、トラーを生きるとするならば、
逆噴射する。だから、そんな事では誰も義とされない、
と書かれています。
しかも、生きる事はキリストと言う言葉が、その教えに
よれば、退けられてしまいます。
イエシュア ハ マシア=トラー、預言書、諸書だからです。
生きる事=神のデザインの人=イエシュアを生きる事
だからです。
救い、購いは、トラーに書かれた事を実行して、
得られる類いのものでは無いのです。
人は、宗教の教えにハマると、無意識にも、行いで、
神に認められようと言う事をしてしまうのです。
100%義や救いを得る手段は、人間の努力などでするのでは
ないのです。100%神から与えられた無償の恵みを只只
受け取るだけしか出来ないのが、救い、購い、義とされる
事なのです。
トラーを生きる事で、義を得られるなどと言うのは、
聖書とは違う、事実無根の教え、神の言葉とは
無関係な教えです。
聖書で言う所の律法主義とは、まさに、自分の努力により、
自分の行いの手柄、業により、肉の方法で義、救いを
得ようとする事、と言う説明がされている通りです。
トラーが存在する目的が、見えてないだけなのです。
トラーは婚姻契約なのです。
聖書は、婚姻契約の内容で全て綴られているのです。
救われた人達=花嫁=婚家に嫁いだ後、
婚家の印=トラーを生きる様に神がデザインされている。
人間の本来の姿、神オリジナルのデザインの姿が
トラーに書かれているのです。
救われた人、義とされた人達が、生きる生き様なのです。
救われるために、トラーを生きるのではないのです。
この点を、多くの人が混線している、誤解している
のだと思います。
夫に繋がれる事。生涯夫だけを愛しますか?
夫の言われる事を生きる事は、律法ですか?
神の言葉=律法と言う、聖書に出て来ない間違った教え、
概念をまず捨てない限り、始まらないのです。
言葉には、意味があるのです。別の言葉で、
意味にそぐわない、合っていない、ふさわしく
ない言葉で、神の言葉に関して語る事からして、
やめないと、開かずの間のドアが解除されない。
夫は妻を律法でがんじがらめにするのでしょうか?
そう言う人も居るでしょうけれど、神は違います。
安全のため、他の教えに走り、別ものと混ざり合い、
汚されて行かないために、傷つかないために境界線、
安全地帯=安全な神の家の中に住う事、
留まる事が与えられているのです。不健全、歪んだ束縛
とは、まるで違う世界です。
安全な境界線、守りのガードが与えられているのです。
それとも、自分の夫の言う事を退け、
隣の男性の言う事をを聞く訳?
それでは、隣りの人の家に行って下さいと言う事です。
あなたは、熱いか冷たいかのどちらかにしてと
はっきり書いてあるのは、中途半端、混ぜ物の教えに
留まる生き方を、神は忌み嫌うと書いて
ある通りだからです。
愛=婚姻契約の愛の姿に、あなたは生きる事を
選択しますか?と言う、神からの問いがあるのです。
神の言葉を生きるのか、生きないのか?
それを、選ぶのか、選ばないのかは、100%
その人の選択にまかされているのです。
夫の言う事を聞かない、耳を貸さない、拒絶するのか
それとも、夫の言葉を一言一言宝石の様に大事にするのか。
神の言葉を捨てる、終ったものとする事は、
まさに、神の言葉、夫を拒絶しているのと同じ事なのです。
誰がいつ、神の言葉が終ったと言ったのか?
神?それとも、人間?と考えたら分かります。
あなたの前に命と、死を置いたと書いてあります。
神の言葉は100%愛=契約の命の保護ガード。
人間の教えを信じて、神の言葉が永遠不変と書いてある
言葉を素通りしてしまい、この事実に気がついてないから、
拒否するのだと思います。
神の言葉のある部分が、あたかも、悪いもの、古いもの、
終って要らないものであると言う
意識が根底に植え込まれているからです。
でも、あなたは命を選びなさいと、はっきり書かれています。
それは強制執行など出来ないのです。
自由意志、自由選択に任されている。
今日、今この時も、自分が考えている事、発言している事
自分の自由意志、発想である事でも分かります。
トラー=神の造られた人間の姿を生きるのか、
自分が編み出した別の教えを重視し、神の言葉=トラー、
インストラクションをもう終ったものだからと言う
人間の教えに聞き入り、退けて、自由気ままに勝手に
生きるのか生きないのか?と言う事です。
続く