1世紀当時、ユダヤ、サマリヤ、ガラテヤ地方に点在していた
イエシュア信者は、殆どがユダヤ人だったのです。
イエシュアが昇天された後、全く別の教えを、1世紀当時の
イエシュアを信じる人達が生きていた事が、
聖書のどこに書かれている事実があるのかないのか?
試しに聖書を、読み直してみると、事実がちゃんと書いてありますから、答えを得る事が出来ます。
当時の教師達、リーダーの中には異邦人は1人も居ないのです。
ローマ帝国の支配の元にあったイエシュアの信者達の
グループも、今とは全く違う、ヘブライ、ユダヤ、イエシュアが生きた教えたトラーの中身そのものに、深く根付いていた、強く
結ばれていたのです。
もちろん、当時は週の第一日目=ローマ皇帝=主の日を、
礼拝日とするような事も一切存在しない、無かったのです。
西洋宗教がローマ政府によって、宗教と正式に認定されない時代ですから、その様な別の教えを生きる人達は、誰一人として存在していなかった事実に目を留めると見えて来ます。
いや、パウロが警告した様に、別の福音=トラー以外の
違う教えを作り出されていた事は、聖書に記されていますが。
その時代に、聖書以外、レビ記23章以外の宗教の祭りなどは、
存在していない時代なのです。
ハロウイーンや、バレンタインデー、西洋宗教文化の祭りや、
祝い事の日が、一切無かった様に。
いつそれらの祭りが出現したのか、調べて見ると、
その起源、由来が分かります。
それらの新しい、聖書とは違う祝い日や教えが出て来たのは、
聖書が閉じたずっと後である事を、知る事が出来ます。
プラス、ヘブライ人はその様な祝いや祭りを
今でも祝わないのです。
聖書に登場する、著者達は、その様な西洋宗教の教えや、
祭りを一切知らなかった事実があるのです。
パウロが書いた書簡のタイトル、宛先を見ても分かります。
ローマ、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、
テサロニケ、その人々達、もちろんまるっきり異邦人ではない
ヘブライ背景を持った人達です。
そして、その人達が、エルサレムの信者=グループ、
ナザレ派と当時呼ばれていた拠点に、様々な教えを請うていた。
トラーの中身、実際に異文化で生きる上での、適用例を
手紙で質問して、所謂、エルサレムのセンターに送って
居たのです。
その書簡のやり取りこそ、当時のパリサイ派の教えに沿っての
流儀であったわけです。
パウロは、死ぬまでパリサイの子、ヘブライの子であった
事実。
パリサイ派=悪者、律法主義の団体と誤解した教えを聞かされているので、何も見えて来ないだけなのです。
パリサイ派は、当時の人達には多大な信頼を受けていた、
トラーに乗っ取り、最も人道的な教えや、庶民への助けを
与えていたのです。
大衆からの信頼はお金で買い取るものではなく、長年生きて来た実績、評判により、人から与えられるものだからです。
ある一部には、変な人も居る!曲がった考えを押し付ける人が
いる、イエシュアを信じる今の世の中のグループを見てみも、
同じ名前が付けられたグループでも、その中に居る人によって
屯でもなくずれた教えを唱え、人にも強制していると言うのは、
誰でも知る通りだと思うのです。それと全く同じです。
あるパリサイ派の、たまたまイエシュアの目の前に現れて、
イエシュアをチャレンジしようとしている、そう言ったずれた
考えを持って生きてた人達に対して、イエシュアが戒めて
いたと言う事が書かれているのです。
紀元66年の第一ユダヤ戦争まで、イエシュアを信じる人達は、
当時のパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派と並ぶ、
ナザレ派として位置していたのです。
まるごとトラーの中身を信じる、イエシュアを救い主として
信じる人達のグループです。この誤解が解ければ見えて来ます。
イエシュアを信じた人達は、トラーを捨てて、
新しい教えを信じ始めた、生き始めたのではないのです。
トラーを捨てた新しい教えを信じている人達だったと
するならば、もしそうなれば、全く異なる異教の神々の
宗教の一派と位置づけられ、名付けられたでしょう。
70年に神殿が崩壊した後、この形態は、急速に分裂と、
別の福音、教えに走って行く路線に入って行くのです。
それは、主に政治的な事が原因でした。
続く