聖書の言葉の内容を誤解したまま使用する意味の違う言葉 “後の雨” | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本でも、住む場所によって、その土地柄の天候気候の違い

風習、生活習慣が違うものです。

その土地に住む人なら、誰もが知る事、分かる事が、

他県に住む人には、全く理解出来ない事があると思います。

 

例えば、この間東京で大雪が降った日のニュースを

見ましたが、雪対策の無い都会に住む人には本当に、

大変な事だと思います。

でも、雪国に住む生活の人達には、あの程度の雪は

普通に対処する準備が備え付けられている。

そう言う違いがあるのですね。大雪のある日には、

雪かきしないと、屋根が落ちる、出入り口の戸が塞がれて

しまい、外に出れない〜。

 

聖書の中に書かれている事を、読んでみて、何となく理解

したかの様に思い込んでいる箇所が、実は屯でもなく違う

意味に取り違えていたり、聖書の言葉の字面だけを

理解しているので、その中身、意味が結局本当は、

分かっていない。<自分に関してですが>

 

そこに書かれている言葉の意味する内容、中身は何ですか?

と自分に問うてみたり、誰かに聞かれた時にどんな意味

なのか、結局本当の所が分からない。ぼんやり、自分流の

説明を編み出しても、聖書の事実とは違う、ズレているから、

的を外してしまっている。

はっきり書いてある意図通りの中身を、実は説明出来ないと

言う箇所が山ほど有ると思います。字面では分かっていても、

本当は分かっていない。

 

アメリカで、”後の雨の教会”と言うタイトルの教会が

ありました。

 

”後の雨”と聞いて、最後に凄い雨が降って来る、

聖霊の雨が大降り〜土砂降り、大雨の如く降って来る〜と

言う様な意味にあやかりたいと、名付けられたらしい

のですが、この様な”言葉”の意味する内容の誤解は、

後を絶ちません。

 

イスラエルと言う土地、環境を知らないまま、聖書の中身を

想像で考えている良い例だと思いました。

実は、私も10年前までは、まるっきりそんな事も

知りませんでした。

詰まり、聖書を学んでいると思っていても、読んでいる内容の、

基本的な知識、情報が殆ど抜けたまま読んでいたのです。

私には、トーヴなモレーmoreh=教師が居なかった、

聖書を学ぶ、神の言葉、開かずの間の鍵を開く

正確な手がかり、情報に欠けていた。

 

”後の雨”とは、聖書では、イスラエルに春の時期に降る

チョロチョロ、パラパラの小雨なのです。農作物の成長が、

痛まない程度のやさしいぱらぱら雨です。

 

イスラエルには、3つの雨期が在ります。

 

春から、秋の仮庵迄の長い間、イスラエルには一切雨が

降りません。

そして、夏など摂氏50度にも達する暑い日がずっと続きます。

本当にからっカラっ!です。土地は、バリバリにひび割れる

ほど、乾燥します。灼熱〜。車のボンネットで、卵焼きが

焼けるほど。

カラカラ〜に渇いた大地を、農作業が始められる様に

叩き割る雨が、丁度秋の仮庵の時期を境に、

降って来るのです。

 

そして、冬の今の時期、1月、2月辺りに、雷を伴う様な、

大雨が降ります。週末もイスラエルの友人と今週学んだ聖書

箇所に関して色々情報、意見交換をしている時、

凄い雨が降って来ている事と、上空にイスラエル軍の軍機が

ブンブン飛んでいて何やらありそうと言っていました。

 

この大雨で、水が溜まり、水が確保されると言う様な性質の

雨です。雨が降る。神からの、恵みです。

イスラエルに雨が降らない時は、イスラエルが、契約の命の

姿を生きる事からズレて、危ない状態で生きて居る印でも

ある事が聖書に書かれています。

 

そして、3、4月にかけて降る雨は、大地に優しく

パラパラと降る雨なのです。これが”後の雨”と聖書で

呼ばれている雨です。

 

聖書を理解するのは、文字だけを読んでも分からない事が

あるのは、そう言った土地や気候、地形、文化、風習、

トラーの中に書かれれている知識が無い場合には、

自分流に考えて解釈をしてしまう。自分の生まれ育った

固定概念、先入観でヘブライの聖書を読んでしまう。

 

そして、その教えを聞いた人達も”後の雨”とは、

凄い大降りの雨の事なのだと誤解する訳です。

違う情報が伝達され続けて行く。

 

この様な聖書の世界の、誤解の連鎖は、

ずっと続いているのです。

 

実は、何気なく使い合っている、語りあっている言葉が、

聖書の意味する言葉の内容とは全く関係ない、神の言葉が

意味していない内容の言葉を、別の意味で語り合っている、

そんな数々があるのです。気が付いていないだけですが。

 

続く