ユダヤ人の、イエシュアを信じる人達、又はユダヤ人の中に
根付いている、神からの深い教えを感じる事がしばしば
あります。
神の言葉を忠実に、熱心に探し求める態度。
そして、神の言葉が永遠不変だときちんと信じている事。
イスラエルへの契約が途中で破棄されるなんて、
信じてたら、神から永遠の契約書を、人類の代表として
まず渡された人、その責任を負っている人達は、
どうなるの?と言う事だからです。
途中で、神が契約を変えたら、全ては茶番劇と化すからです。
冗談もほどがある〜と言う事です。
彼らは、神の契約が終るとか、神の言葉が途中で終ると
言う考えを、聖書に基づき全く持っていない。
それは、神の言葉に基づいて、真実だからです。
ヘブライ語聖書に書いてある事に基づけば、神の言葉が
途中で、変化すると言う教えが無いからです。
ユダヤ人でその様な考えをする人達は、ギリシャローマ
人間哲学思考をインプットされている、諸外国で育った
人達であると言う事です。
そして、神の言葉の最初の三分の2が、”律法”であると言う
その様な教えや考えは全く無いのです。
その思考回路は、ヘブライ語聖書とは違う。
聖書に基づき100%真実では無いからです。
世界の都市伝説と、ヘブライ語聖書の神の言葉とは
異なる点が、あらゆる面で多々あるからです。
聖書には、神の言葉を指して、”律法”と言う言葉で
書かれている箇所は、一カ所も無い事実が、
ヘブライ語原語聖書には存在します。
だから、神の言葉に対して、律法と呼ぶ、その呼び名を
とにかく絶対にやめる。神の言葉を律法と呼ぶのは、
外れた考え、ハターである事を知れば分かる事です。
山田さんを、スミスさんと呼ぶのと同じ事です。
歌舞伎なのに、バレーと言う、親子丼なのに、
カレーライスと呼ぶのと同じ事です。中身が違う。
別の人物、物を、実態にそぐわない別の名で呼ぶ事。
そして、神のトラーは、古代中東近辺に存在していた
”婚姻契約書”の形態で、そっくりそのまま
書かれているのです。
そして、神の言葉を、”トラー”とヘブライ語では、
呼ぶのです。
トラー=神の教え、インストラクションと言う意味。
とにかく、聖書=神の言葉を正確に知るためには、
間違った理解、間違いの前提を、まず正す必要があるのです。
そして、本当の神の言葉に根拠を置いて考えない限り、
人間の教え、聖書とはズレた解説は
後を立たず、作り出されて行ってしまうのです。
だから、世界には、41000以上と言う、宗派が存在
している、それが何よりの証拠です。
詰まり、変わった神の言葉と言う教えを元にしてしまえば、
何の教えでもありの世界になってしまうのです。
その通りになってしまっているのが、今の世の中の教えの
現状です。
人の判断、基準で神の言葉が終了、有効と勝手に仕分けて
しまっている教えのオンパレードが今の宗教の世界の現状。
み言葉を聞けない飢饉とは、神の言葉が塗り替えられて、
原型をとどめない状態を指しているからです。
神の言葉が、何かの本当の意味が分からない世界=御言葉
を聞く事が出来ない飢饉と書いてあるからです。
しかし神は、残りの民=本当の意味は、購い出された人達を、
ちゃんと保存しているから大丈夫なのです。
購い出された人達が、正確に神の言葉の実態と
その生き様をどの時代にも継承しているからです。
神が、神の言葉を保存するために、神の言葉を、そっくり
そのまま伝え、生きてガードする人達を、どの時代にも
保存されている。そうでなければ、神の言葉は、簡単に
全て薄められ、歪められ、原型を保存した神の言葉を
継承されなくなってしまうのです。
”神のトラーは、完全”とダビデが知って発言、認めた様に、
途中で変わらない、途中で終らない。
別の新しい教えなど、イエシュアが昇天された後も
作り出されてなどいないのです。
パウロも、トラーを捨てて新しい教えを作り出した、
新宗教の教祖様ではない。
新宗教の教祖様は、4世紀のローマ皇帝コンスタンチヌスです。
その事実に事実に戻らない限り、迷路に入り込んだままになる。
神の与える広い世界に入って行く事なく、
自分の悟りの狭い世界の中だけ、自分教の世界を、
生きる様になってしまうのです。
続く