自分流の神の言葉の解釈や、自分が信じている内容に
照らし合わせて、色々する事はあっても、
神の言葉、10の言葉、トラーだけに戻り、
照らし合わせて起動修正すると言う事が、
私は殆どありませんでした。
聖書にクリアーに書かれている、もし”神に近づくならば”
神の指定した通りの方法、やり方で近づいて来なさいと
はっきり書かれています。
神のインストラクションを無視しなければ、それが創世記から
黙示録に渡り、クリアーに細部に渡り書かれている事に
気がついて行けます。
人間は、神に造られて生きるものとなったのです。
造られたお方だけが、デザインした創造物の生き方、
性質、デザインを、その通りに教えられる事が出来るのであり、人間が神に対して、創造物や人の生き様に対しての、
勝手な解説をするのが、どれほど、とんちんかんな事をしているのであるか、冷静に考えたら分かると思うのです。
この”神の指定したやり方”を無視したのが、人間の作り出した
神への近づき方=これが宗教の教えの全て、偶像礼拝と呼ばれる物の実態であり、命の木から食べないやり方=律法主義的な
全てと、聖書の中に書いてあります。
詰まり、神の意図からズレた全て。
的=トラーを外す事、それがすなわち、聖書で、
ハター=罪と訳されている事の実態です。
神の意図を外れた姿、内容は、全て”ハター”と書いてある。
古い箇所は、終ったもの〜と、信じていたら、どうなるのか?
終ったなら無効と言う事だからです。
神の言葉を捨てたら、何が真実だか見えない、分からなくなる。
神の言葉は、意味無いと言う事を言っている事なのです。
考えたら、とても恐ろしい事なのです。
ピュアに異邦人的思考回路。異教の神々の世界に生きていた
意識丸ごと。神が変化すると言う考え。神が途中で神の言葉を
変えると言う意識そのものが、異教の神々の異教徒の
意識そのものだからです。
神の宣言、言葉を否定すると言う事は、
神に造られた人間が、神の上に立っていると言う事だからです。
神の言葉が終ったら、”10の言葉の柱”のどれ一つでも、
取り去れたら、聖書と言う建物は、崩壊してしまうのです。
事実を照らし合わせる基準が、グラグラ、いや基準が無い。
終ったから無い。基準の実態が、何も無いと言う事です。
では、自分は一体何を根拠に、何を信じているのか?
クリアーな頭脳で考えると、神の言葉を終らせた教えは、
意味が不明で、辻褄の合わない信仰実態と言う事は、
明らかです。
イエシュアが忠告して居る事を、無視する教え。
トラーを捨て去る様に教える人の結末が、聖書に
書かれています。何と聖書に書いてあるかだけに、目を留める。
神の言葉よりも、世の中に根付いた、
人間が編み出した伝統の教えが、何より優先されて
しまえば、それこそパウロの警告した”別の福音”は
次から次へと編み出され、世間は、偽の教えに踊らされる。
その通りの事が、実際にずっと起こっているのです。
神の言葉を捨てたら、渇く。迷い出る。
だから、”せいれいさま〜下って来て下さい〜満たして下さい〜”
とずっと言い続け、あっちへ良薬あると聞けば行って飛びつき、
でも、そこに何も無い事が分かれば、今度はこっちへ行けば
何か、この固く閉ざされた扉が開く秘訣があるのかもと、
飛びつき、でも、実際は何年経てども、自分の中には、大した
大きな変化無い。
だからやっぱり”罪人”のままなんだ〜と言う、神の完了の業を
疑う確信は増々固くなり、神の業へ対しての不信仰は
分厚くなり、実際は失望の連続。
正直に、自分の中を覗いてみれば、聖書に書いてある
”生ける水”が怒濤の様に、喜び=エデンを体験して生きる事に、欠落している、ズレている事実がある事を否めない。
なぜか?何故イエシュアが言われた約束とは、違う状態に
自分は低空飛行して留まっているのか?と真剣に考えた
方が答え発見の近道だと思います。
でも、聖書には、違う事が書いてあるのです。
信じる人の実態=新しくされた人の姿を今生きれる事実。
むずかしくない!と書いてある。
ナファーシュ=安息に入る事が何か、見いだすのは稀と
ある通り、難しくないのに、神の言葉を信じない不信仰が
単に邪魔しているだけ。いや神の言葉をどの部分でも捨てたら、
それは、弊害があると書いてある通りだからです。
申命記30:11−14を読めば、あなたの腹の中に
”御国”が既に到来している”と、ヨハネが言った通りの事が
書かれています。
”神の言葉”=命のパン=生ける水=イエシュア=トラーの
中身の中に全てがあるから。そこから汲み出せる。
どこに居ても。何をしていても、神の中に居る。
神の中に私達も存在しているから。
古い聖書の箇所は終った、終了した、賞味期限が来て無効に
なった教えだと、殆どの人が信じていれば、それが大衆の声。
大衆パワーには勝てない。大衆の声は、大きく強い。
影響力、説得力がある。
でも神の声は、細くても、小さく聞こえても真実は、真実。
静かな川の流れの様に、ずっと常に自分の中にある。
耳を傾けさえすれば、聞こえる。
耳を傾ける=神の言葉の下、声の下に来て、神の言われる
神の言葉だけに周波数を合わせて、聞けば分かるのです。
わたくしは、イエスさまを信じて、そして神の言葉=聖書も一つだと信じてますと、口ではそう言って居ました。
永遠不変の神の言葉と信じてますと言いながら、実際は
全く違う事を考え、信じて、行動していました。
それでは、ズレて当たり前です。
実際、実態は、神の言葉=古い箇所は終ったと信じて、
行なっている事が、
ないのでしょうか?
神の真実は、大衆の票により決まるものなか?と、錯覚を
起こしてしまいます。4世紀に行なわれた新しい創作宗教の
様に、人間の会議で神の言葉が、変えられてしまう事は、
今も継続して、ずっと起きているのです。
続く