マタイによる福音書第22章35節から38節
「そのうちの一人、トラーの専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、トラーの中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これは、心、精神=ネフィッシュ=自分と言う全存在丸ごとを
駆使して、あなたの神である主を”愛しなさい”。
この中にある、愛とは、自分定義の想像の愛ではなく、
アハバ=トラー=契約の中に書かれている”アハバ=愛”神が定義する所、デザインした姿を、ガードし、生きると言う事を
イエシュアが話されているのです。
礼拝と言う翻訳から、異邦人の意識で想像に浮かぶ事は、
自分達の中で親しみのある礼拝儀式や、
礼拝式をする人達の事かな?などと思うのです。
賛美したり、祈ったりする事かな、あれこれやったり
する事なのか?と色々想像していましたが、
聖書に書かれている本来の意味に戻すと、
神を礼拝する人=”神の言葉を、神の言われた通り、意図通りに生きる人達”と言う意味です。
その中には、もちろん”神の定めの日”に、神が指定したその日に
神の御前に、神の指定した通り、出る、祝う、祝福をする事も
含まれているからです。
日常の生きる中の全てで。衣食住の全てで。
人間関係の中の全てで。ビジネスや、家庭生活や夫婦生活、
コミュニテイでの生活の中の全てで。
一日の中、一週間の中、一ヶ月、一年の中の全ての
生きる事の中で、神の言葉のエッセンスを丸ごと生きる。
その中には、神の祭り、定めの日の事も含まれているのです。
何故なら、それらは、”イエシュア”そのものだからです。
基です。
人の生きる姿そのものです。
これは、アヴェッド=”サーヴァント”仕える者と言う言葉や
又はヘブル、超えるなど色々な意味に繋がっています。
ヘブライ語で面白いのは、同じ言葉で、全く別の2つの
裏表になってしまう意味が在る事です。
神に仕える人=アヴェッド。
しかし、神の意図通りに生きない場合、”奴隷”になってしまう。
何の奴隷?別の教え、別の神々、この世の定義する価値観、
生き様の奴隷になる。
神の言葉を意図通りに生きるなら命、実を生み出し、
同じ事をしても、神の意図を外し、動機が違うなら、
死を生み出し、自分を縛り付ける。
アボダも、神の意図通りに生きない場合、
窮屈、狭い、苦しい、辛いと言う様な別の物に変身すると
言う言葉なのです。
その言葉は、エジプトを意味する言葉と同じになって
しまうのです。
エジプト=狭い、苦しい、辛い、窮屈、束縛。
命の木と、知識の木の様に、同じ1つの木と書かれていますが、
別の食べ方をすれば、別ものに変身してしまう。
これは、私達の日常生活の中でも色々あるから分かります。
神が造られた最も美しいものを、別の目的に使用するなら、
醜いもの、汚らわしいもの、別ものに変身してしまう。
礼拝とは、本来の意味は、”生きる”です。
神のデザインした通り、神の言葉を生きる事、
生きる事はキリストとある通り、全部同じ意味で
繋がって行きます。
これから一年で一番大きな、神の定めの日、
大贖罪日と、仮庵の祭りがやって来ます。
花婿を迎える準備と同じ。
5人の花嫁は、内側に油を持ち、準備万端な状態である事が
書かれています。その人達は、花婿の父の家の部屋の中に入って行く。
その油は人から譲り受ける事が出来ないものです。
何を信じているのか?神の言葉?それとも、人の教え?
自分の中に培うもの=神に属するものなのか、別のものなのか?
と言う問いでもあるのです。
続く