生きる事はイエシュア | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイによる福音書第22章35節から38節
「そのうちの一人、トラーの専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、トラーの中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

 

これは、心、精神=ネフィッシュ=自分と言う全存在丸ごとを

駆使して、あなたの神である主を”愛しなさい”。

この中にある、愛とは、自分定義の想像の愛ではなく、

アハバ=トラー=契約の中に書かれている”アハバ=愛”神が定義する所、デザインした姿を、ガードし、生きると言う事を

イエシュアが話されているのです。

 

礼拝と言う翻訳から、異邦人の意識で想像に浮かぶ事は、

自分達の中で親しみのある礼拝儀式や、

礼拝式をする人達の事かな?などと思うのです。

賛美したり、祈ったりする事かな、あれこれやったり

する事なのか?と色々想像していましたが、

聖書に書かれている本来の意味に戻すと、

 

神を礼拝する人=”神の言葉を、神の言われた通り、意図通りに生きる人達”と言う意味です。

その中には、もちろん”神の定めの日”に、神が指定したその日に

神の御前に、神の指定した通り、出る、祝う、祝福をする事も

含まれているからです。

 

日常の生きる中の全てで。衣食住の全てで。

人間関係の中の全てで。ビジネスや、家庭生活や夫婦生活、

コミュニテイでの生活の中の全てで。

一日の中、一週間の中、一ヶ月、一年の中の全ての

生きる事の中で、神の言葉のエッセンスを丸ごと生きる。

その中には、神の祭り、定めの日の事も含まれているのです。

何故なら、それらは、”イエシュア”そのものだからです。

 
礼拝とは、アボダと言う言葉が”仕える”と訳されている言葉が

基です。

人の生きる姿そのものです。

これは、アヴェッド=”サーヴァント”仕える者と言う言葉や

又はヘブル、超えるなど色々な意味に繋がっています。

ヘブライ語で面白いのは、同じ言葉で、全く別の2つの

裏表になってしまう意味が在る事です。

 

神に仕える人=アヴェッド。

しかし、神の意図通りに生きない場合、”奴隷”になってしまう。

何の奴隷?別の教え、別の神々、この世の定義する価値観、

生き様の奴隷になる。

 

神の言葉を意図通りに生きるなら命、実を生み出し、

同じ事をしても、神の意図を外し、動機が違うなら、

死を生み出し、自分を縛り付ける。

アボダも、神の意図通りに生きない場合、

窮屈、狭い、苦しい、辛いと言う様な別の物に変身すると

言う言葉なのです。

その言葉は、エジプトを意味する言葉と同じになって

しまうのです。

エジプト=狭い、苦しい、辛い、窮屈、束縛。

 

命の木と、知識の木の様に、同じ1つの木と書かれていますが、

別の食べ方をすれば、別ものに変身してしまう。

これは、私達の日常生活の中でも色々あるから分かります。

 

神が造られた最も美しいものを、別の目的に使用するなら、

醜いもの、汚らわしいもの、別ものに変身してしまう。

 

礼拝とは、本来の意味は、”生きる”です。

神のデザインした通り、神の言葉を生きる事、

生きる事はキリストとある通り、全部同じ意味で

繋がって行きます。

 

これから一年で一番大きな、神の定めの日、

大贖罪日と、仮庵の祭りがやって来ます。

花婿を迎える準備と同じ。

5人の花嫁は、内側に油を持ち、準備万端な状態である事が

書かれています。その人達は、花婿の父の家の部屋の中に入って行く。

その油は人から譲り受ける事が出来ないものです。

 

何を信じているのか?神の言葉?それとも、人の教え?

自分の中に培うもの=神に属するものなのか、別のものなのか?

と言う問いでもあるのです。

 

続く