神の言葉に付け足して造り出した、人間が勝手に造った、
編み出した考えや、仕来りや、近づき方は、
神の言葉の中に、契約の中に、その教えは混ぜてはならないと
神が言われているのです。
それを、神の言葉で”姦淫の罪”と書いてあるのです。
別の神々の教え、仕来り、慣し、生き様、生活習慣と、イスラエルの神の家の子らの生き様が混じり合う事=それが姦淫の罪。
それをするなら、偶像礼拝と同じだと書かれています。
自分の業、編み出した方法、やり方、考えで神に、近づかないでくれと神が言われるからです。
神が言われた通りを生きてと神が言われる。
その事に違和感有る場合、神との関係は疎遠だと言う事。
聞きたくない〜あなたの言う事なんか、無視〜。それでは
親しい関係なんて結べない。信頼してない、あなたの言う事
以外をやりたいです。関係の度合いのバロメーター。
神の言葉は、命綱です。命のパン。
神の言葉により、人は神と繋がれている。
そして、神の仰せは、複雑でも何でもない。
申命記 30:12−18
奥は深いけど、複雑でも、難しい事でもない。
簡単すぎるから、疑う。
簡単すぎるから、貴重に思わない、大事にしない。
軽く考えてしまう。
命の木と知識の木。
どちらからでも、簡単に食べる事が出来る。簡単にそこにある。
簡単に神の言葉とは違う事を選択可能。自分で選べる。
命を選ぶのか=神の言われた通り、死を選ぶのか=神の言う事とは違う教えを敢えて選ぶのか?
神の言われた通りではなくて、神の言葉以外に何かしなくてはとアダムとエバが考えた事。
自分達が神の似姿である事を、疑わせた事。
この事実に戻ると、神の言葉を退ける、仰せを退ける事は
愚かで危険だと分かります。
その結果が、今の世の凄まじい荒廃状態。
生きていても命が死ぬ。神の命、輝き、栄光は現れ出る事が
出来ない。別ものの神々の姿を生きるなら、そこにイスラエルの神は現れ出る事が出来ないから。
シャバットに、神と特別な出会いをすると言われたら、
そんな事大事ではない〜、どの日でも良いのだからと
どうして言うのだろう?神の言葉とは違う教えを、誰に教えられたので、そう考える様になったのか、元を辿って考えると分かって来ます。
もし、神の言われた通りをするという基本中の基本の態度、
意識、認識が無い場合、本当にどんな別ものの姿にも
変身して行く事が出来ます。
又は、神の言葉、言われた事を自分は無視しているのかも?
と聖書に書かれている事に照らし合わせてみれば、
必ず気がつく事が出来ます。
どれだけ、自分勝手な考えであれこれ生きて居るのかと
言う事が見えて来る。
一昨日、昔流行った歌をふっと思い浮かべて気がついた事が
有りました。
ゴダイゴと言うグループが歌っていた、”ガンダーラ”
インドにあった理想郷を歌った歌です。
*In Gandhara Gandarah They say it was in India
Gantarah Gantarah 愛の国ガンダーラ*
こんなさびの部分があった曲。これを考えた時、
何故、神が一つの国民=イスラエルを選び、
神の家の子らの姿を、生きる事をまず教えたのか、
世界に向けて、神の家の子らの姿を同じ様に
教える役割を与えたのか、聖書を読めば書いてあります。
聖別とは、”取り分けられた”と言う意味です。
神の特別な目的の上に取り分けられた=聖別です。
世界は、神の子らの姿から飛び出して、それぞれが
異教の神々に仕えて生きる人達で溢れています。
異教の神々を拝んで生きる人達には、異教の神々の教えに
沿って生きて居るのです。
たくさんの異教の神々の国の、教え、生き方、祝い事、
慣しがある。
トラーを読んで行くと、何何するなかれとある、
何何せよとあるそれらは、神のデザインした人間のオリジナルの
姿が書かれているのです。
窮屈に、束縛に感じるのは、子どもの意識。
分からないから、それがうざく、邪魔臭いものだと言う
考えしか思い浮かばない。
歩き始めの子は、勝手にどこでも行きたい。
どこに行っては行けないのか、分からない。
だから、親がひもを付けたり、手を繋ぐ。
でもそれを振り払い、勝手に歩く自由と言うものが欲しいのが、何も分からない子どもの考え。
子どもに、安全綱を付ける。ちゃんと安全地帯、
安全な囲いの中で、命を守るためです。
人は神の中、神の言葉=命綱から離れて、糸の切れたタコ状態
になったら危険なのに、神のトラー=命綱は、窮屈、縛り付け、
律法なのだと教えられているから、神の言葉を捨て去る、
忘れる、無視する危険度が、幼子には、理解出来ない、
分からない。
続く