太陽神信仰から始まり、現代の宗教の教えの中身は様々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

新しく4世紀に出来たローマ皇帝宗教は、太陽神信仰を

取入れて出来た教えでした。

 

古代から、また、どの国でも、日本でも、世界中に太陽神信仰はありました。

主の創造物を拝む、お天道様を拝む信仰は、古代から

どこにでもあったものです。

 

太陽神信仰=これは、世界中に浸透しています。

太陽に手を合わせて拝む。初日の出を拝む、ご来光を拝む。

 

そして太陽神の日=日がとても大事な日なのです。

ローマ皇帝国教=太陽神の記念日=”栄光ある太陽神の日”として拝む日は、太陽神信仰の中では、週の第一日目でした。

だからその日が大事で、その日に、新宗教の祝い日として、

トラーの中にある”シャバット”の日を変更してしまったのです。

 

私は、日曜日にイエシュアが昇天した日を記念して、

神がシャバットを変更する仰せが在ったのだと思っていました。

聖書に書いてない、根拠がない事は、聖書をそのまま

読めば、分かるはずなのに。分からなかったのです。

 

しかも、シャバットの意味を知れば、それが変更されると

言う教えが、聖書にない事は分かるはずだったのです。

 

イエシュアが昇天した日がいつなのかは、はっきりと

分からないと言うのが正解です。

これは聖書の中に、昇天した時がいつかは書かれてないからです。

 

そして、たとえ、イエシュアが昇天された日が、週の第一日から

第6日であろうと、第三日目であろうと、何日であろうと、

第七日目のシャバットは、神の側では変更などされる事など

ないのです。

 

それを言うなら、人間がサルになるとか、太陽が巡る方角が

変更すると言うのと同じになるのです。

神のデザイン=神の暦=神の定めの日=モエッドは永遠不変

だと神により宣言されているからです。

 

ですから、今現代の多くの人がガードする”安息日”なる日は、

トラーの中身の”シャバット”とは違う事に、違う日に

なっているのです。ローマ皇帝を拝む日、ローマの神々を

拝む日。努力して神に認められる事をする日。

ローマ皇帝を、神々を拝むために詣でて、認められる事をしなくてはならない日だったのです。

一生懸命努力を皇帝、神々の前に示して、皇帝に、

神々に認められる事をする日。

 

シャバットは、逆です。本質が全く違う日です。

止まる、休む、作業や努力をやめる日。

上から来る神の恵み、完了の業を、雨を受ける様に

受け取り生きるだけ。自分の努力の世界とはまるで違う。

人のためにシャバットが造られた、シャバットの意味、

根が全く違うのです。

 

4世紀のそれまでは、そのローマ宗教なるものは、

存在しなかったものです。4世紀までは、全てのイエシュアを

信じる人達は、週の第七日目をシャバットとしてガードしていた。トラー=神の仰せのライフスタイルそっくりそのままを、

生きていた。それ以外の日に別の事をする人は誰も居なかった事実を知ると見えて来ます。どこで、どう変わったのか?

誰が変えたのか?人間が変えたのです。

 

私は、使徒2章にトラーを破棄した新しい教えが、突然出現したのだと勘違いしていました。でも使徒から黙示録を読んでも、

シャバットは週の第七日目とはっきり書いてありますし、

トラーのライフスタイルを生きていた。

トラーのライフスタイルとは、トラーの中身に書かれた

一つ一つのアバ父からのインストラクション。

生活の全部に渡る、神のデザインされた人の生き方を

そのまま生きる。何を着るのか、何を食べるのか、

家をどの様に造るのか、どの様に結婚生活をし、

どの様に国を治め、どの様に軍隊を造り、戦争をするのか?

そして、イスラエルの神の子らの印である、神の特別に

定めた日=シャバットを中心に、繰り返し生きて、

1年に渡る祭りの日がある。

その中で、福音のアルファからオメガ、

ヘブライ語では、アレフからタヴまでの全部が入っている。

生きる全てがその中に全部書かれている。

 

続く