1テモテ1:4
作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。
1:5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。1:6 ある人々はこれらのも
のからそれて空論に走り、
1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。
トラーを知らないと、聖書が理解出来ない事が見えて来ます。
福音書から黙示録まで、くまなく知っている、その内容を
理解していると思っていても、
トラーは理解出来ないのです。逆は無いのです、
不可能なのです。
上巻無しで下巻が分かりますと言う事はない。
でも、トラーが分かれば、預言書、諸書、福音書から黙示録まで
クリアーに見えるのです。全部繋がる。全部同じ事、同じ福音、
同じ契約の中身だけを語っている事が見える。
先入観と、偏見と、今迄教えられて来た”パウロが新しい宗教、
トラーを捨てて、否定して、別の契約を教えている。”と言う
教理、人造神学、教えを丸ごと全部切り捨てる、排除、
ゴミ箱に捨てて、パウロの書簡を読み直して来ると、
様々な真実が浮き彫りになります。
これは勇気が要りますし、聖書に基づき確信が無い場合には
揺らぐでしょう。何故?だって偉い先生がそう言うのに、
そう教えているのに、それとは、違う事を信じるなんて
出来ない〜!
これに尽きるでしょう。
でも、聖書にだけ戻るのです。聖書=神の言葉が絶対的権威。
神が教師=モレーなのです。トラー、モレー、ヨレーと
同じ言葉で書かれています。
神が教師、神のトラーが人の教え、生きる糧、パン、
トラー=的に当たる路線に入る事が、ヨレー。
聖書解説の中に、神学の中に、人の教えがたくさん混ざっている事に、気がつけます。聖書だけに戻る場合。
その場合、2つの事だけを知れば、軌道修正大分出来ます。
1 聖書は一つの書。何も変化なし。
2 完了の業で新しくされた人、神の似姿にされている事実。
聖書は始めから終わりまで、同じ事を語り、
神学が唱える所の、時代ごとに区分けされた神の業など
語っていない事。同じ福音の中身、実質を語っている。
この世に居ても、この世のものではない人達と書かれている通り、ピンと来ないけど、同じ。今神の中に居る現実が
あるのです。だから分かりにくいのですね。
神の業、神の人相七変化とした方が肉の頭脳には
ピッタリ納得出来るから、区分けしたい。
でも神が言われている事は、”目”を上げて、神の目線から
見直し、学習する事なのです。全く違う世界を知って行く。
目の前に書かれている通りを、捉える事が出来るように
なります。いや、真実の土台に根付いたら、奥へ奥へ
遠くへ、深く深く神の言われる真実の中に入って行って
見続ける事が出来る様になります。
それが、神の造られた人のデザイン、頭脳。
神との関わりは、神の真実の中だけで正常に繋がれる、
機能する、味わえる。それが”安息”ナファーシュに入ると
言う醍醐味なのです。
”二心”を取り去る。
肉の目から見ている、人間の教えを捨てて、
神の語られる、命の木から食べる、神の目から見た通りを
再学習して行く。
ここに書かれている事は、
4節 言い伝え 真実ではない作り話
系図
7節 トラーを間違った様に取り扱っている
20節 そして、その偽の教理を教えている人達をパウロは
名指しで書いています。
7節にある様に、トラー教師と書かれている。
トラーを教えている。
この書簡や福音書が書かれて居る時は”新約聖書”と
タイトル付けられている箇所は、一つも形として集められて
居ない事に注目すると分かります。
パウロや使徒達は、トラー、預言書、諸書だけを
教えて居たのです。
その記録が、福音書から黙示録。
その中身の全て100%どれもトラーの中身とマッチ。
変形、相反する教え、または別ものの、新しい教えなんて
聖書の中にどこにも書かれていなにのですが、新しくなったと
言う都市伝説が世界へ伝えられたのです。
それこそが、このパウロが書いている”言い伝え、人の教え”
なのです。
よくよく聖書だけに戻り考える人は、必ず真実を掴む事が
出来ます。翻訳だけを読んでも、分かる様になります。
トラーの教師って何だろうて事から、考える、調べれば
それだけでも見えて来ます。
イエシュアは何と言われたのかそこだけに注目しても
分かります。
トラーを信じないなら、どんな事、誰を遣わしても
信じないだろうと言われた、ラザロのたとえ話や、
”トラー、預言書、諸書”丸ごとわたしの事が書いてあるから
読みなさいと、復活された後も語られたのです。
何か私は物凄く変形された、人間のドグマ、教理、神学を混ぜた
似た様で本質が違う教えを聞いていた事に、はっきり
目が開かれて行くのです。
一旦真実を知り、聖書の中から揺るがない確信を掴めば、違う教えには戻れない事も分かって来ます。
そして、学んだ事、場所からしっかり落ちないで、繋げて行く。
そして、その目的は”生きる”。
まことの命、喜びを破壊されないで生きる領域を
再所有して行く、アバ父が用意して下さった本物の人生、
本物の自分で生きる、その旅路が待っているのです。