大事なものを大事にする日 思い出すための日 アバの呼び出しの集合日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日はシャバット。しず〜かな日です。車も殆ど通らない。

イスラエルでは、この日は家で過ごします。

家族のための日だからです。

 

金曜日の夜 ベイト カネセットでコミュニテイの人と

晩さんをする人もいますし、土曜日の朝にもトラー朗読

に行く人もいますが、会堂も家のすぐ裏ととても

近いのです。基本は、家。家に家族、友人、仲間が集って

楽しく過ごす。

家族の日。余計な事一切しないで、ゆっくりのんびり

楽しんで過ごす。殆どが家でのんびり過ごします。

これがシャバットの醍醐味です。

 

昨晩は、25人位の人が集まりました。

思いがけない人にも出会いました。

とある聖書学者の方。その方の本などを色々読んでいて、

お名前だけ知っていたので、突然出会えてびっくりでした。

私達と同じ時にガリラヤ湖に行って、友人が案内していたその

親子さんがその方だったのね〜と分かりました。

しかも、家族の故郷と同じ場所に住んでいて、

そこからいらしていた。家人も同じ場所に馴染みがある、

近所の人に会った様な雰囲気で話していました。

 

不思議だな〜と思いました。

以前私は、シャバット=安息日は律法だ、なんか諸悪の根源みたいな、敵対心満々の教え、律法主義的な人がする事だし、

イエスさまがトラーを破棄されたので今は、正当派の人、

特に異邦人達には全く無用、もう終わった教えさ〜と、

教えられ来て、そのままその教えを鵜呑みにし、その教えに関して全く疑いませんでした。いや、信じた始めにそう上の人から

教えられたら、そうなのか〜と刷り込みされれば、

真相が分からなくなるのは当然だと思いました。

 

ある立場や、権威ある人から、そう教えられたら、神の言葉が目の前に在っても、自分で考えて真実を読み取ろうとする事さえも、やめてしまうのだと分かりました。

そして、人の教えを土台にして考えて行くから、ズレて行く

と言う事なんだなと思います。

 

しかも、”シャバット”の真髄、深い意味、奥義、いやこれこそ

神の家の子らにされた”捺印” “印” ”証拠” ”証”なのに。

新しく嫁いだ慣れ親しんだ事では無いけれど、

自分の属する婚家の慣しそのもの。

 

シャバットの意味の本当の内容、それさえ只の一度も

教えられた事も無ければ、見聞きしたことも無ければ、

体験した事も無い、イエシュア=イスラエルの神を

信じているのに、よく考えたら不思議な思考回路だったのです。

 

礼拝だったら何曜日でも実はいいのさ〜。

そんな事、聖書のどこに書いてあるのかな?と考えてみます。

多分”ある人はある日が大事だとする”とか食べ物に関して書かれている箇所を読んで、パウロがトラーを否定、破棄しているのだと、屯でもない結論を生み出す神学が出来ています。

ローマ14章。

 

パウロは、自身の生涯閉じるその日まで、トラー教師、使徒、ヘブライの中のヘブライ、パリサイの中のパリサイの子だと言う事実を知らないとならないのです。その書簡の著者の背景、信条、思想が何か分からないまま読んだら、いや、パウロは新しい宗教の教祖様だなんて思っていれば、パウロの書簡は、全く別ものの

内容の解説になり、理解不可能になります。

パウロは100%トラーを語っていると言う事を根拠に読み直せば

パウロの語っている回答の論点が見えて来ます。

 

パウロが何者であるのかを知れば、パウロがシャバットを否定して、どの日でも良いなんて事教える訳が無い事が分かるのです。

 

そして、シャバットがいつでもよい事になれば、1週間全部=休み、とまる日になってしまいます。

しかも、どうして神の言葉をそう簡単に変えていいのか?

と言うその事自体、異邦人の頭脳の世界だと分かります。

有り得ない。イスラエルの神、神の言葉が何たるかが見えない。

 

神の定めの日は、神が定めた日だけなのです。

ハ ヨム=ザ デーと特定の日である事が、原点聖書には

はっきりと書かれています。

 

”聖書に何と書いてあるのか?”だけが大事な事。

神が何と言われているかだけが、カウントされるからです。

出エジプト 20:8−10 31:13−17

レビ記 23:3

福音書以降も、シャバットに関して記されています。

 

イエスさまも、シャバットをされていたのです。

神の定めの日=モアデイムの全てを祝われていたのです。

 

そして、このシャバットと神の定めの日こそ、福音の中心であり、福音の中身を丸ごと生きて再現、体験するものであり、

全てはこれを中心に教えられている事が、聖書に実は

書かれているのです。言ってみれば、生きて追体験するドリル。

生きて、天の現実の中を生きて居る体験を

地上で再現する事でもあるからです。

 

”神の時”に、神のレッスンプランがある。

人と神の考えは全く違うものです。

神の思いは人の思いより遥かに高い、違う道と在る通り。

 

テイラーメード、カスタムメード、オーダーメード。

その日その時、その週、その月、その季節、その年で

神が“、死んだ以前の自分=自分の強い縛り付けの原因”に

手を付ける。ピンポイント。ここだよ、これだよと。

そして、痛い部分に向合わせる。死んだ以前の自分の中に

記憶されている、頭脳にも肉体にも埋蔵されていた、

ゴミ、腐敗物に気がつかせる。

 

今の自分、新しくされた人を生きる妨害をしている何かに、

気がつかせる事を必ず神はしているのです。神の時の中で。

 

”どうしてこんな自分になってしまったのか?何が自分を

縛り付けているのか?その原因、思考回路の元に気がつかせる。

そして、一つ一つ、強い縛り付けを根絶やしにして、新しくされた人、約束の地をくまなく手に入れている事実の中を闊歩して生きる事が出来るためです。

 

神のプラン通り、神のデザイン通り、神の時の中で

必ずちゃんと教えて下さる事、それには、神の言葉、声の周波に、波長を合わせる。

神の言う通りにする。自分の思い込みや、思いつきや、方法ではなくて。言葉の中に聞き入る事をする時に、

必ず気がつく。日々の出来事の中で、事件、問題の中で

必ず教えて下さっている事に気がつく事が出来るからです。

 

続く