詩篇133:1
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、
なんという喜び。新共同訳
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
新改訳
見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。
口語訳
兄弟=アーハ=兄弟、親類、同胞、仲間
一つ大家族が、住まう=ヤシャーヴ 住まう、すわる、留まる。
イスラエルの神の家=ハ マコム=場所=神の中に
神のデザイン通りに住まい、生きる時、
それは、麗しい姿だと書いてあります。
一つ家族は、イスラエル、異邦人、人種に関係無い事が
書かれています。
イスラエルの神の言葉に応答し、神のブリット=人の
生きる姿の中に加えられ、それに生きる事を選択する人達が
本物の家族、本物のイスラエルなのです。
その家族のメンバーは、永遠から始まった。
神がエデンを造られた時に始まった。
一つ家族は、古代の始まりから今に至り、
将来に至るまで、”一つ家族” 突然2000年前に
神の家族が出現したのではなく、始めからずっと継続している、
そのたった1つの神の大家族に、加えられた人達の
事が書かれています。
仲良き事は、美しきかなと武者小路実篤さんが
言われた名文句。
この神の言葉のエッセンスとピッタリです。
本当にこれに尽きると今回の旅で思いました。
世界平和を唱えるなら、まず自分をフォーカスする事。
自分の生き方が、神の前にトーヴ状態なのかどうかを、
ずっとずっと一日中、様々な出来事を通して、確認
出来るチャンスを与えられています。
日々の全ての出来事が、レッスン、お稽古、練習です。
小さな事に忠実に、誠実に取り組む。
自分の言動、行動を粗野なままに放置しないで、
ないがしろにしないで、自分が新しくされている
人の実態で生きて居るのか、ズレているのか、常に
確認する事をおろそかにしては、栄光から栄光への変貌の
実態を見る事が出来ないからです。
本当に小さな事なのです。そして、簡単に出来る。
そう書いてあるから。申命記30章11−14。
出来ないと思っているだけ。神の言葉に対する盲目と
=新しくされている完了の事実への盲目と、
罪人だからと言う偽の信仰の方を信じて、
不信仰がマックスに、ミックスして功を奏しているだけ。
世界は、本物の自分で生きる事、神の造られた世界の
実態を、自分と、相手と家族と仲良く、麗しく生きる
人は”神の造られた人間が生きる姿”と言う生きた、
お手本を失ったまま、争いの中に壊れて生きて居るのだと
本当に実感。でもイエシュアが来られたでしょう。
トラーに書かれている人の姿の丸ごとを生きてみせて下さった
本もののお手本。それが終わりと伝えられたら、
なにがどうなのか、まるで分からないと言う事になる。
お手本が終れば全て終りです。
では、人間の姿のその修復はどこから始まるのか?
自分、夫婦、家族、仲間、コミュニテイと繋がって行くのです。
だから、一致、一つマインドで互いに生きようとする人の間には、神の栄光、実態が現れるのですが、それをないがしろにし、
また互いの命に敵対する事を互いに言い合い、やり合う場合は、
神の栄光は見えない、喜びが消えて行く。
それなんだと、思いました。
今日は、聖書での神の定めの日ではないので、お店も閉まらないし、仕事もある日ですが、日没から街中がどんな様子になるのか
と思っています。
まだ午前中、これからガリラヤ湖で、泳ぎます。