宝の宝庫 神の言葉 神の造られた世界 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトの出来事、事件を追って行くと、様々な真相が浮かんで来ます。
神の言葉は永遠不変。宝の宝庫です。
生きるために食べる。
神の言葉を食べなければ、人は本当の姿、本当の自分で生きられない様に造られているからです。
 
出エジプトのルートを、聖書に沿って調べて行くと、
そこには新たなに事実が、数々浮かび上がって来ます。
聖書にだけ戻り、考えて行くと真実が見えて来る。
 
そして、実際そのルートを辿り”紅海”を渡ったであろう
本来の場所に行くと、出エジプトがあったたくさんの事実、証拠が海の中にも眠っているそうです。
これは、もう少し調べてからまとめて書きたい内容です。
本気で調べる人達がいる事が凄いと思うのです。
そして、真実が現れ出る時分かる事。
”神の言葉、神は永遠不変”と言う事実に必ず繋がるのです。
 
真実を知りたい。私達は神の真理の中だけに
存在して生きる様に造られているからです。
生ける水の中で生きる姿が人の本当の姿。
それが人間の本当の性質。デザイン、状態だから。
嘘や偽の教えの中では、苦しくなる。
喜びが死んでしまうから。
 
そして、聖書の中に書かれている”地名”と”事件、出来事”は
全部関連があり、意味があります。
地名一つとっても、神の教えがその中にふんだんに
詰まっているからです。意味の無い言葉など一つも
オリジナル原典聖書の中に書いてはないのです。
 
神の言葉は、数字でも、言葉でも、名前でも、どんなに
小さな箇所でも、ものすごい意味が中にある。
今川焼の皮がない全部あんこが詰まっている状態です。
 
出エジプト=奴隷から購われて、再び神は”律法”と言う名の
牢獄に人を閉じ込め縛り付けていたのだ〜。
新しい救いが出るまでは、呪いの下にいたからだ〜。
それまでの仮の教えの律法を人間の努力で行なわせ、
仮の罪の許しをささげて、しのいだのだ〜。
今は、律法の時代は終わり別の時代、律法は無用なのだ〜などと言う只の人間の仮説、人間の教えは、完全に人間哲学思想の肉の目から眺めたヘブライの神の言葉の世界です。
律法なんて言葉で神の言葉、教えを指して書いてある箇所は
原典聖書に一カ所も無いのです。
 
非聖書的。エハッドであり永遠不変のイスラエルの神の
性質と全く相反する教えになるからです。トラーの中身の意味を知り読めば確信揺るがなくなります。
トラーを終ったとする、トラーを理解しない教え、
人間の考えから聖書を読み続けるから、真相が見えて
来ないだけなのです。
 
そんな馬鹿なの世界。
購い出されて、再び神が人を神の造り出した”律法”なる
もので人を縛り上げ、努力で守らせて、厳しく見張り、奴隷として閉じ込めておく。
そして今は恵みの時代。どんな神像なのか?
 
少なくともイスラエルの神とは違う。聖書に書かれている神とは
違う神像を語っている。同じ神の名を使いながら、
別の神像を信じ込まされている。
 
人間のデザイン、生きる姿は、トラー以外には、
書かれていないと言う事なのだと思います。
神の言葉は、永遠から永遠。何も変わっていない。
 
完全に聖書ではない事が、オリジナル聖書に戻り、
その中身を知って行くとはっきり見えて来ます。
ぞくぞくワクワクドキドキ、こんな凄い事が
書かれている!!!自分が気に入らない、自分が納得出来ないと
言うのは自分が神になっている証拠でもあります。
 
神がこの世界を造られたのです。
神が神のデザインした人間そして、動物、植物生き物と
調和してどう生きるかを、神御自身が説明しているのです。
人が勝手に解説するものではないのです。
人間が神に変わって、神の言葉を人間の教えで塗り替えて
いるだけです。その大元はエデンの園のあの声と同じ。
神でもないものが、神の造られた人間の姿を
はぐらかした事と同じです。
 
神の目から見た、完了の業で取戻されている人間は、
神の似姿の人である事、聖書の始めから終わりのページ
全部にちゃんとはっきりブレずに書かれています。
 
荒野は、ミッドヴァール 神の声と蛇の声を聞き分ける
訓練の場です。
神の言葉に忠実に戻れば、ちゃんと神の細く語る真実の声が
ずっと流れている事に気がつけます。
疑うから分からなくなるのです。
疑う=神の言葉とはズレた人の教えに聞き入れば、それらしく聞こえるからそうかもと思う。
でも、その声、言葉が神の語る言葉とズレている事、
神の言葉に戻って知るのです。
 
今日を大事に生きるとは実際にどんな事?
恵みを無駄にしないで生きるとはどんな事?
神の言われる通り、”本物の自分で生きる”と言う事。
 
神の似姿にされた自分で、光の子だから、光の子らしく
闇の子の様に生きないのですよと、今も在りて在るお方
アバ父が語ってくれている。
 
礼拝とは、ヘブライ語の意味では、生きる事。
神の栄光がマックスに地に現れるとは、どんな事でしょう?
神の似姿である人が、神の似姿そっくりを生きる状態が
それです。
 
自分が”神の似姿”=天のアバ父の現実を透明な状態で
生きる時、その姿が地に映し出されるのです。
栄光の天にあるごとく、地にも成させたまえとは
全くその事を語っているのです。
 
それは、”罪人意識”で罪人らしく生きるならば、
アバ父の姿は現れ出ないで、濁ってしまう。
別の姿になる。
 
そうではなく、神の子として、神の子の実態を
生きる時に、フルに神の栄光が地に映し出されると
書かれています。
 
生きる事はキリスト。
キリストとは、どこにその中身が書いてあるのか?
その内容をどこで知る事が出来るのでしょう?
どうやって生きたら良いのでしょう?
イエシュア御自身が直に語られたでしょう。
トラー、預言書、諸書に丸ごと=わたし=ハ マシアが
書かれていると。その中を知れば、分かると。
 
 
 
エジプトから一晩で出て、こんな場所に連れて来られた
イスラエルと異邦人たち。
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