1列王記 19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
エン ボケックには、岩の山と荒野に湧く小川が流れていて、
その中に入って行くと、小鳥のさえずりが聞こえるほど
静かな場所です。
熱い地の中の、オアシス。涼しい風を感じて、癒されます。
ここに初めてきた時に、皆でざくざく砂利や石を踏みながら
楽しく談笑して歩いていたのですが、ガイド=
今や”歩くトラー”のガイドになっている友人が、
”ちょっと耳を澄ませてみて。”と注意を促してくれました。
皆静まると、そこには気がつかない小川のせせらぎの音が
ある事に意識が向いたのです。それまでは、全然気にも
止まらない、止めない音。
皆でわいわい、がやがや自分達の会話の中に
没頭していたのですが、ちょっと言われた事に注意を向けて、
静かにして耳を澄ませてみると、小川のせせらぎの音が
そこにあった事に気がつくのです。
神の言葉、声は丁度その様である事が書かれています。
一日中、私達の内側に流れている。
語りかけて下さっているから。
それは、神の言葉を通して知る事が出来る。
エリヤが体験した事の中に書かれている。
強い風、嵐、地震、その様な大きな音の中に神の声が
聞こえなかった様子が書いてあります。
そして、一番最後、火の中にも”在りて在るお方”の声が無い。
その出来事の前に、”在りて在るお方”は、エリヤに
質問しています。これは、典型的イスラエルの神の手段。
質問する、考えさせる、答えを発見させると言う事。
人は神の言葉、真実の中で考え始めたら、
必ず神の真実を発見出来る様に、造られているからです。
神が人をそうデザインされたからです。人の脳は神の言葉を
キャッチ出来るために造られているのです。
私達の全存在は全て霊的なのです。神の似姿、ルアフ=霊
を吹き入れられて造られたからです。
考える=最も霊的作業=祈りは考える事なのです。
ヘブライ語ではそう書いてあるのです。
神の言葉真実の中で、神の意図と照らし合わせる作業
それが”祈り”と書かれているのです。
神が分からないから、人間に質問しているのではない。
人が神に”考えさせられている”事実に注目すると見えて来ます。
神の言葉だけに注意を払わないと、一日中”騒音”の様な世界=神の言葉とは異なる声、教え、考えを思い巡らせてしまいます。
静かな”せせらぎの音”=神の言葉は簡単に、騒音でかき消されてしまうのです。
しかも、その声は、二心の声。死んだ自分と、新しくされた
自分の間を行ったり来たりしているのです。
死んだ自分のままで考えている、そして、神の言葉に属さない性質の教えを、それらしく聞こえても非なる考えを思いめぐらす、
インプットし続ける。それは、ちまたに、これでもかと言うほどに溢れています。似ている様でその性質は全く神の言葉の真実と
異なる、非なるもの、見分けずらい。神の言葉を知らないと
見分けられない。
注意を払わなくても、見聞きする。どこでも聞く事が出来る。
一日中インプットされ続ける、神の言葉とは異なる教えは
まるでこの流れの様です。
耳を澄まさなくても、耳に飛び込んで来て注意を促します。
でも、下の流れは、耳を澄まさないと意識に上らない位
静かな小川のせせらぎです。
エリヤが全ての事の後に、最後に細い声を聞いたとある通り、
ゴーゴーうなる声、注意を払わなくても聞こえる声、世間で
主流な有名な教え、神の言葉の真実は、狭き門とある通り、
世間の唱える教えとは、異なる所にある。
だから注意を払いながら、神の言われる事=神の言葉に意識を
向けて、神の言葉の中だけで、神に聞くと言う訓練が必要なのだと分かります。
エリヤがベエル シェバから1日の道のりを荒野に入ったとは
こんな場所だったのです。
そこで、気がつくのです。
神は聖書に書かれている出来事を、偶然の出来事で神はそこに
記載しているのではない事。
全ての人に、意味を持ち、何かを教えるためにそこにその
歴史上の出来事が書かれている事。
神が選んだ出来事が書かれているのです。
耳を澄ませて、神の言葉の意図、真実に注意を向け続ける。
小川のせせらぎは意識していないと、全然意識の中にも
上らないほど静かだから。