未来ミレニアム イエシュアが統治される世界はトラーの中身を生きる預言がされている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

このイザヤ書56章の箇所は、未来の修復されたミレニアムの

この世界の話を語っているのです。

56章8節にはクリアーにそれが書かれています。

 

イスラエル=全世界の一つ大家族が一つに修復される事が8節に

クリアーに書かれています。

聖書に何が書いてあり、何が書いてないのかだけを知れば、

真実が浮き彫りになって来るのです。人の解説で、

神の真実=言葉の真実=実態の顔を覆わなければ、見えて来ます。イスラエルの神は同じ福音をずっと語り続けている事を。

 

この中に何と書かれているのでしょうか?シャバットを聖なるものとして”シャマー”する=ガード、守り、神の家の祭壇の上で、焼き尽くすコバーンを神に受け取られる。

 

第三神殿は、サタンのものなどと言う教え、図式は聖書ではないのです。イスラエルの神の家は、イスラエルの神に

属するのです。神の臨在が地上で宿る場所。

 

一つ家族、一つ神、イスラエルの神の子ら、神のデザインされた

人々、家族の生きる姿が世界の真ん中で神を中心に

高く掲げられる場所。

 

そして、神の家を荒らそうとするものは世界のどこにでも

存在します。神の家を荒らすものは、神の言葉も荒らす、

錯乱させようとするのです。

 

ゼカリヤの預言ともマッチしている、未来の一つ大家族=人類の

姿が書かれています。

儀式的側面=今終ったと西洋宗教界の神学が語る所の全ては、

聖書に戻れば、何も変わらず、今度未来、ミレニアムに

皆が神のトラーを生きる、シャバット、祭り、そして全ての

神の言葉の中身を生きる様になる事がはっきりと

書かれています。イスラエルの神が言われた以外の、

他の生き方は聖書の中に書いては無いからです。

 

イザヤ56:1 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。

56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。
 
 56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
 
56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
 
 56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―
 
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
 
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。
 
この8節は未来のミレニアムを語っているのです。
これらの事は、今世界ではまだ起こっていない事です。
未来、ミレニアムがイザヤとゼカリヤで語られているのです。
 
ゼカリヤ 9:7 またその口から血を取り除き、その歯の間から憎むべき物を取り除く。これもまた残ってわれわれの神に帰し、ユダの一民族のようになる。またエクロンはエブスびとのようになる。

 
未来イエシュアが戻ったら、全世界が神のモアデイム=定めの時を祝う様になる事が、クリアーに預言されています。
仮庵は一年の一番最後の祭り、ブックエンド、締めくくりの
一番大きな祭りです。仮庵と書かれているのは、過ぎ越から
始まり仮庵だからです。神の定めの時は、シャローム=ワンセットでホールネス。どこも欠けては意味が無いのです。
 
いやどこか一つだけ取り出して祝う様に、神は指示を与えていないのです。西洋宗教がする所の、シャヴオートだけが今は意味があるなど、そんな事は聖書に書いてはないのです。
神のデザインされた祭り全てを祝う。
シャバットと全ての祭りを祝う。
それがイスラエルの神の子ら、契約の中に生きる、
分たれた人達=聖別された人の神が与えた印だからです。
 
一つだけを祝うのは、トラーでは無いのです。聖書的ではない。
そして、祭りを祝うというのは、一年の中で
毎週1度、シャバットを祝う事も入るのです。
そして、祭りの祝い方は曜日に係わらず、シャバットに始まり、シャバットで閉じるからです。
 
多くの人々が捨て去った神の定めの時=祝い=シャバットを
今度は全世界が、諸人こぞって皆で祝う様になると書かれている事に注目してみると人が唱える所の教え=終った神の言葉、教えは真実ではない事は明らかに神の書=言葉の中に語られている事を発見する事が出来るのです。
 

ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。

14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。

14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。

14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。

 14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。

 14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。