一旦浸透してしまった、世間の常識や定番になっている
教えを、元の真実に、戻す、嘘をひっくり返すのは、
容易な事ではありません。
偽の噂が浸透してしまう事と同じで、一旦嘘も真実だと
信じられたら、その事柄に疑いを持ち”考える” ”疑問に思い調べる”と言う事を、人はしなくなるからです。
真実に照らし合わせたら、どう考えても変な事なのに、それが変だとも思わない、”裸の王様”の透明な洋服の如くに。
見える見える、本当は無いのに見える。
聖書の中に、書いてないのにそう書いてあると思い込む。
聖書が2つに分断され、そして、神の業は時代ごとに
違い、救いも購いの質も時代ごとに違う。
二つに分断された思想は、4世紀以降、形となって
出現しました。ヘブライ色削ぎ落として造った
新宗教の出現により。
そして、その後、人の教え=”戒めの律法”が限りなく
造られ続けて来た。今も同じです。
そして、時代ごとに神の業が違うものになると言う思想、
その様な神学は19世紀まで世の中に存在しなかった
ものなのです。以前の人達の中にその様な考え方を
する人も居なかった。
大幅に聖書に対する教えが、人間の解説、教えにより、
変えられてしまったのです。それが、神の言葉の真実なのだと
教えられてしまった。
それは、神の真実が、途中から突然変化、新しい教えが
出現し、神の真理が新たに、明らかにされたからではない。
只の人間の目から見た、解説が19世紀に初めて
出現しただけです。
そして、その教えがその後、世界に浸透して行き、
途中から変わった神の言葉が真実であるとなった。
只それだけです。只の人間の解説。
私達が疑いもなく信じ込んでいる様々な科学の仮説も同じです。
500年前までは、誰もそんな事を、考える人達は居なかった。
そんな事を言う人は、頭が変と思われるほどの事柄。
よく考えれば変だと分かる、証拠も、事実も、実験結果も得られ無い、只の誰かの発想。空想。
でも、それが真実とされてしまった。
今やそれが全く逆転してしまった。
神の創造の世界を塗り替える教えが、
くまなく浸透してしまった。
例えば進化論やビッグバンなど。その他多くの仮説を
世の人が誰一人として疑わない。それが、実は”証拠、実験実証
も只の一度も出来ないものであり、観察からも、
証拠が得られない。
科学者本人達が、只の仮説である=それを認めて、発言=証拠、根拠が見つからないと、しているのに、その下りは教科書や学校では一切教えられず、それら仮説が、あたかも真実であるとされてしまい、その偽の教えが世間に浸透してしまった。
そうすると、その嘘が真実として、広く信じられている。
詰まり、仮説=宗教なのです。
その様な類いの事柄が、世の中にはたくさんあるのです。
もうめちゃくちゃな教えが、氾濫する今の世の中です。
神学とて同じです。
始めから聖書、契約、神の言葉が変わったと言う、人間の
教えの前提から解説されてしまっているからです。
しかし、聖書には何と書いてあるのでしょうか?
神御自身が、神の言葉は永遠不変、一点一画も付けたし、削除、
手を加えるなかれと言われたのです。
その様な事を人がすれば、どの様に神から見なされるのかも
聖書にはっきり書いてあります。
旧約聖書=律法、悪い、古い、終った教え?
何度も同じ事を書いていますが、パウロと言う人も
最大に誤解されている人物です。
新しい宗教を造った人。トラーを破棄した人。
今までの教えは、縛り付けの律法なので、人はそれから
解放されたのだ〜。神の教えが縛り付けの律法なんて
どこに書いてあるのでしょう。
神の言葉が神の言葉に対して敵対し、人間に敵対する
教えであったとする、
それって、聖書に基づき真実なのでしょうか?
本当に聖書にそんな事が書いてあるのでしょうか?
パウロがトラーを熟知し、その中身のみだけを語っている事が
分かれば、彼の書簡に何が書かれているのか、
見えて来るのです。イエシュアが地上で一体何を教えて、何を生きたのでしょう?
まずは、トラーの中身を本当の意味で知る必要があるのです。
その中身が分からない限り、すべてがぼやけるからです。
人の中から、失われたトラーの中身の真実。
この点が不明な場合、パウロが使徒、そして書簡の中で語る意図通りは見えない、いや曲解されてしまうのは、言わずとも知れた事なのです。
パウロが、モーセの書を否定する、少しでも変形させる事は
一言も述べていないからです。述べるはずが無い。
何故なら、パウロは使徒だからです。
パウロはヘブライ人なのです。
使徒=神からの託宣をその通りに述べる人。
神のトラーを人々へ教える人なのです。
創世記からマラキ書は部分的に終った教え、
または殆ど終っているとする人間の解説。
その様な解説は、神の言葉を、全部キャンセル可能にしてしまう事も出来てしまうのです。終ったのなら、終わり。
終ったのだから〜自分の都合、自分の解釈により、この部分は終わり、この部分は有効であると、勝手に仕分け、解説、言えてしまうからです。
その様な教えは、何であるのか?結局神の言葉の権威を
無視している。永遠不変の神の言葉を、真っ向から否定している事に気が付く必要があるのです。
その様な解説が、ちまたを広く横行しているのです。
どんなに創世記からマラキ書のどの箇所を引用して解説してみても、究極は”この教えは終ったもの”だから、その解説も
意味有りませんとなってしまうのです。究極に不安定。
神の言葉が迷宮入り。
古い部分は参考程度に読むのですと言う様に、教える人もいる。そう言う図式がいつも、着いて回り、それでは、
神の言葉、真実の一貫性は完全に崩壊されて、
結局”的”=トラー=神の意図には辿り着けないのです。
終った、変わった=これでは、永遠不変の神の言葉では
なくなってしまいます。
続く