シャバットの意味 シャバットはいつと聖書に書いてありますか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットは、アバからの贈り物。

とまる、やめる。努力で神に近づいて行くことを

やめる日。神のされた完了の業に安息、休み、

その事実からだけ生きる事を思い出す日。

 

この日は何の日?

 

この日は、いつと”聖書”に書いてありますか?

第七日目と書いてあります。

翻訳聖書でも、第七日目と書いてありませんか?

他の日と、書いてありますか?

実際に聖書に書いてない事を、違うものに解釈して、

神の言葉を塗り替えて読み込んではいませんか?

第七日目と書いてはあるけど、本当はそうではない〜変わったと。神はそんな人を惑わす二心で言葉を語らないのです。

注意深く、注意深く、アバ父の言葉を

一つ一つ確認して読んでみるのです。

 

そして、シャバットの直ぐ後に来る、週第一日目の

流れに入るのです。シャバットで確認した状態で生きるのです。

残りの6日間を。

 

第一日目は、ヨム リション=最初の日とは書いてない。

シャバットは、第七日目です。

 

アバ父が贈り物として与えて下さった日。

シャバット。

耳あるものは聞きなさいと優しいアバ父が語っている。

見る目を持つ者は見なさいと。

 

あなたは誰なのか?どの”家族”に属する人なのか?

神の家に属する人は、神の家族の生き様、慣し全てを

取入れる。神の家の衣、名を着せられた人達なのです。

その印がシャバットでもあるのです。

神の家族となった印=契約の中に存在する印=シャバット。

 

アバ父の言葉=鏡に照らし合わせて、本当の自分を知る日です。

軌道修正をきちんと、し直す日です。

私達は、鏡が無ければ自分の顔を、直接見る事が出来ませんね。

誰か居ますか?本当の自分の顔を直接見た事のある人は?

 

それが何を物語っているのか?

すごい”ピクチャー ラングエッジ”です。

私達は、何かを通して本当の自分を、初めて知るのです。

アダムがエバを見た時に知った、本当の自分=肉の肉、骨の骨。

エバを見た時、自分の体から出た、自分のエッセンスを見たと

アダムは、そう表現しているのです。

そして究極の親しさ、ロマンチック満載な

言葉で表現されているヘブライ語なのです。

 

私達の本当の姿を映し出す、その鏡は、”神の言葉”=トラー。

神の目から見た、本当の自分がそこに書かれているのです。

 

人間は、本来の姿から飛び出た。

本当の姿からズレて生きる事を、学習して来てしまった。

それは本当の自分ではなくて、学習してしまった

“偽”の自分です。

 

神の造られた本当の人間の姿を、生きて見る事が出来ない。

だから、イエシュアが地上に来られたのでしょう。

神のデザインされた人間の姿を、生きてお手本を見せた。

本当の人間の姿、生き様を見せに来て下さった。

その人間の生き様は”トラー”丸ごと。

だから、イエシュアは、肉体を取って来られたトラー

ハ トラーと呼ばれたのです。

 

神が教えてくれる、”自分は誰か”と言う事が大事なのです。

誰かが、定義するあなたは誰か、あなたの価値は何か、

あなたの本当の姿は何かではないのです。

 

世の中は、神の言葉とは違う、別の教えで氾濫しています。

だから狭き門=稀にしか見いだせない神の言葉=そこから入るのです。

真実は、広き門の中を通っても見つからないから。

 

その証拠に、本当のあなたは誰かなんて

殆ど教えてくれる人は居ないでしょう。

 

自分達も本当の自分=神の目から見た自分が誰だか分からないのだから。だから、ズレ人、ドロドロな人、駄目な人、価値ない人、罪だらけの駄目な人と言い続けるのでしょう。

神の言葉の真実から、失われているまま、

分からないままだから。別の目が開いた世界だけで、見続けているから。

 

それが世間一般の宗教の語る、肉の目から見た人間の姿です。

 

でも、神はそんな事聖書の中で語っては、いないのです。

大事なのは、神のなされた”完了の業”それだけが絶対的根拠

なのです。神は人の業=救われるための業なんてカウントしてないのです。

 

始めから、神の似姿の人=神の霊=ルアフ=息=エッセンスを

吹き入れて、生きるものとしたと書いてある通り。

 

神の目から見た本当の人間とは何であるのか?を知る事が出来ない場合には、他者にも”本当のあなたは誰か”と言う、神の目から見る事実を、決して教える事など、生きて教える事など出来ないのです。

 

自分が、誰か分からずに、神の言葉の真実とは、別のアイデンティティを信じ込み、神の言葉の真実の中から、外側に迷い出て、違う教えの迷路の中にいたら、他者を、神の真実の中、

ヨレーには導く事は出来ない。

ヨレー=神の真実に繋がる路線、トラー=的=神の言葉の真実に当たる路線に入っていないからです。思考回路が。

 

肉の目から見た、以前の死んだ自分の目から見たら、

自分の回りに居る人は、以前の死んだ人で生きる人と

しか見えないのでしょう。

いや、本当の自分で生きる事を、多くの人は知らないままで居ると言う事なのです。本当のアイデンティティを取戻された事実=完了の業が分からないと言う事。

 

シャバットは、顔と顔を合わせて生きる。

神と顔と顔を合わせて、本当の自分で神に向合う。

人の本質は、罪人ではないのです。

神の似姿に造られている、そして完了の業でその本来の姿が取戻されているから。

 

罪人だよ宣言は、完全に神のされた完了の業を台無しにする。

その様な発言を続ければ、神と顔と顔を合わせて相見える事は

出来ない。隔ての壁、幕がかかったまま。

 

シャバットは、神を真ん中にお互いが、向合い生きる事をきちんと思い出す日なのです。

荒野で宿営した12部族の様子、これこそ神の家族のピクチャー

ラングエッジでもあるのです。

皆が神を中心にぐるっと向き合い生きる事を教えられた。

 

自分が誰であるのか?

人は、互いの間で、どう生きる様に造られているのか?

その原点に再び立つ。神の前に立つ。

それがシャバット。生きる原点、源なのです。

出エジプト=奴隷から購い出された現実=新しい人にされた、

神の似姿の人である事実を取戻された事を思い出す日です。

 

それが、1人ではなく、家族全体が、そして隣り近所全体が

するのならば、そしてそれを週の6日の間、コンスタントに思い出しながら、生きる事をするならば、そこはもう”天の現実”が

地に現れた状態となるのです。

 

 

続く