シャバットは、アバからの贈り物。
とまる、やめる。努力で神に近づいて行くことを
やめる日。神のされた完了の業に安息、休み、
その事実からだけ生きる事を思い出す日。
この日は何の日?
この日は、いつと”聖書”に書いてありますか?
第七日目と書いてあります。
翻訳聖書でも、第七日目と書いてありませんか?
他の日と、書いてありますか?
実際に聖書に書いてない事を、違うものに解釈して、
神の言葉を塗り替えて読み込んではいませんか?
第七日目と書いてはあるけど、本当はそうではない〜変わったと。神はそんな人を惑わす二心で言葉を語らないのです。
注意深く、注意深く、アバ父の言葉を
一つ一つ確認して読んでみるのです。
そして、シャバットの直ぐ後に来る、週第一日目の
流れに入るのです。シャバットで確認した状態で生きるのです。
残りの6日間を。
第一日目は、ヨム リション=最初の日とは書いてない。
シャバットは、第七日目です。
アバ父が贈り物として与えて下さった日。
シャバット。
耳あるものは聞きなさいと優しいアバ父が語っている。
見る目を持つ者は見なさいと。
あなたは誰なのか?どの”家族”に属する人なのか?
神の家に属する人は、神の家族の生き様、慣し全てを
取入れる。神の家の衣、名を着せられた人達なのです。
その印がシャバットでもあるのです。
神の家族となった印=契約の中に存在する印=シャバット。
アバ父の言葉=鏡に照らし合わせて、本当の自分を知る日です。
軌道修正をきちんと、し直す日です。
私達は、鏡が無ければ自分の顔を、直接見る事が出来ませんね。
誰か居ますか?本当の自分の顔を直接見た事のある人は?
それが何を物語っているのか?
すごい”ピクチャー ラングエッジ”です。
私達は、何かを通して本当の自分を、初めて知るのです。
アダムがエバを見た時に知った、本当の自分=肉の肉、骨の骨。
エバを見た時、自分の体から出た、自分のエッセンスを見たと
アダムは、そう表現しているのです。
そして究極の親しさ、ロマンチック満載な
言葉で表現されているヘブライ語なのです。
私達の本当の姿を映し出す、その鏡は、”神の言葉”=トラー。
神の目から見た、本当の自分がそこに書かれているのです。
人間は、本来の姿から飛び出た。
本当の姿からズレて生きる事を、学習して来てしまった。
それは本当の自分ではなくて、学習してしまった
“偽”の自分です。
神の造られた本当の人間の姿を、生きて見る事が出来ない。
だから、イエシュアが地上に来られたのでしょう。
神のデザインされた人間の姿を、生きてお手本を見せた。
本当の人間の姿、生き様を見せに来て下さった。
その人間の生き様は”トラー”丸ごと。
だから、イエシュアは、肉体を取って来られたトラー
ハ トラーと呼ばれたのです。
神が教えてくれる、”自分は誰か”と言う事が大事なのです。
誰かが、定義するあなたは誰か、あなたの価値は何か、
あなたの本当の姿は何かではないのです。
世の中は、神の言葉とは違う、別の教えで氾濫しています。
だから狭き門=稀にしか見いだせない神の言葉=そこから入るのです。
真実は、広き門の中を通っても見つからないから。
その証拠に、本当のあなたは誰かなんて
殆ど教えてくれる人は居ないでしょう。
自分達も本当の自分=神の目から見た自分が誰だか分からないのだから。だから、ズレ人、ドロドロな人、駄目な人、価値ない人、罪だらけの駄目な人と言い続けるのでしょう。
神の言葉の真実から、失われているまま、
分からないままだから。別の目が開いた世界だけで、見続けているから。
それが世間一般の宗教の語る、肉の目から見た人間の姿です。
でも、神はそんな事聖書の中で語っては、いないのです。
大事なのは、神のなされた”完了の業”それだけが絶対的根拠
なのです。神は人の業=救われるための業なんてカウントしてないのです。
始めから、神の似姿の人=神の霊=ルアフ=息=エッセンスを
吹き入れて、生きるものとしたと書いてある通り。
神の目から見た本当の人間とは何であるのか?を知る事が出来ない場合には、他者にも”本当のあなたは誰か”と言う、神の目から見る事実を、決して教える事など、生きて教える事など出来ないのです。
自分が、誰か分からずに、神の言葉の真実とは、別のアイデンティティを信じ込み、神の言葉の真実の中から、外側に迷い出て、違う教えの迷路の中にいたら、他者を、神の真実の中、
ヨレーには導く事は出来ない。
ヨレー=神の真実に繋がる路線、トラー=的=神の言葉の真実に当たる路線に入っていないからです。思考回路が。
肉の目から見た、以前の死んだ自分の目から見たら、
自分の回りに居る人は、以前の死んだ人で生きる人と
しか見えないのでしょう。
いや、本当の自分で生きる事を、多くの人は知らないままで居ると言う事なのです。本当のアイデンティティを取戻された事実=完了の業が分からないと言う事。
シャバットは、顔と顔を合わせて生きる。
神と顔と顔を合わせて、本当の自分で神に向合う。
人の本質は、罪人ではないのです。
神の似姿に造られている、そして完了の業でその本来の姿が取戻されているから。
罪人だよ宣言は、完全に神のされた完了の業を台無しにする。
その様な発言を続ければ、神と顔と顔を合わせて相見える事は
出来ない。隔ての壁、幕がかかったまま。
シャバットは、神を真ん中にお互いが、向合い生きる事をきちんと思い出す日なのです。
荒野で宿営した12部族の様子、これこそ神の家族のピクチャー
ラングエッジでもあるのです。
自分が誰であるのか?
人は、互いの間で、どう生きる様に造られているのか?
その原点に再び立つ。神の前に立つ。
それがシャバット。生きる原点、源なのです。
出エジプト=奴隷から購い出された現実=新しい人にされた、
神の似姿の人である事実を取戻された事を思い出す日です。
それが、1人ではなく、家族全体が、そして隣り近所全体が
するのならば、そしてそれを週の6日の間、コンスタントに思い出しながら、生きる事をするならば、そこはもう”天の現実”が
地に現れた状態となるのです。
続く