隔ての壁、戒めの律法 パウロは”トラー”=神の言葉を指して話ているのではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

このエペソ2章の箇所の論点は、”隔ての壁”を打ち破った

事実が、書かれています。

 

そして、敵対させる、”隔ての壁を造る教え” ”戒めの律法”を打ち壊したとあります。*注=神のトラーを打ち壊したのではないのです。

 

結論から言うと、この箇所での”戒めの律法”とは神の言葉=トラーを指して話しているのではない事は、

原語では明らかなのです。

ちゃんと細かく調べれば、どんな言葉がこの箇所で使われ、

他の箇所でも使われている同じ言葉の意味から、

パウロが何を指して話しているのか、はっきりと分って来る

箇所なのです。

 

神が神の言葉を、破棄する、捨てると言う考えが本当に

“偽の教え”と気がつけば良いのです。これこそ矛盾した

人間の主張、教えだからです。。

 

結論から先に書くと、この箇所に書かれている”dovgma"

”ドグマ”と言う70人訳にある言葉と、使徒達の書簡に書かれている事からも、この”戒めの律法”と訳されている言葉は、

神の言葉=トラーを指しては使われない言葉であり、”人間製造の教え” ”人造の戒律や法”、つまり、当時のラビ達が”トラー”を、日常生活の中でどの様に生きるかと言う事細かな事柄を、口頭で伝えたもトラー。

 

モーセの書ではなく、モーセの書の中にある言葉を、

ラビ達が実際生活の中で、どの様に生きるかの解説を

した、それが口頭トラーです。

 

これを、”ハラハー”と言いますが、ラビ解釈のトラーをどの様に生きるのかと言う事を指して、このエペソの箇所

”戒めの律法”と書かれているのです。

神の言葉=トラーに関してではない誤解を一旦はっきり

させて置く必要があるのです。

 

これを、即座に”モーセのトラー”が破棄されたのだ〜と

するのは、この様な原語の理解知識欠如によるものだと

はっきり分かります。この様な手の間違いが

実はちまたに無数に在るのです。残念ながら。

 

ですから、聖書を注意深く学ぶ事は必須なのです。

 

聖書の中に書かれている言葉の意味や、その背景をくまなく調べる事は、正しく知る事は、特に教える立場の人達にとって、不可欠な事だと分かるのです。

聖書とは違う教えを解説されてしまったら、それこそ

違う場所に導かれて、迷い出てしまうからです。

神が警告した通りに。

 

世の中は、本当に聖書に根拠もない解説や教えで溢れています。

 

一瞬そうかもと思うような解説の数々ですが、その元を辿れば、

聖書の中に根拠が無いものであったり、只の自分の造り出した

解説であったり、原語の意味を知らない本当に初歩的な

間違いなのに、それに基づいて教えを展開して行くというのを

無数に見つける事が出来ます。

でも、そのズレを見つけるには、やはりちゃんとした元の

言葉の意味の知識など、その他たくさん見分ける確実な

情報がないとならない事に増々気がついて行くのです。