このエペソ2章の箇所の論点は、”隔ての壁”を打ち破った
事実が、書かれています。
そして、敵対させる、”隔ての壁を造る教え” ”戒めの律法”を打ち壊したとあります。*注=神のトラーを打ち壊したのではないのです。
結論から言うと、この箇所での”戒めの律法”とは神の言葉=トラーを指して話しているのではない事は、
原語では明らかなのです。
ちゃんと細かく調べれば、どんな言葉がこの箇所で使われ、
他の箇所でも使われている同じ言葉の意味から、
パウロが何を指して話しているのか、はっきりと分って来る
箇所なのです。
神が神の言葉を、破棄する、捨てると言う考えが本当に
“偽の教え”と気がつけば良いのです。これこそ矛盾した
人間の主張、教えだからです。。
結論から先に書くと、この箇所に書かれている”dovgma"
”ドグマ”と言う70人訳にある言葉と、使徒達の書簡に書かれている事からも、この”戒めの律法”と訳されている言葉は、
神の言葉=トラーを指しては使われない言葉であり、”人間製造の教え” ”人造の戒律や法”、つまり、当時のラビ達が”トラー”を、日常生活の中でどの様に生きるかと言う事細かな事柄を、口頭で伝えたもトラー。
モーセの書ではなく、モーセの書の中にある言葉を、
ラビ達が実際生活の中で、どの様に生きるかの解説を
した、それが口頭トラーです。
これを、”ハラハー”と言いますが、ラビ解釈のトラーをどの様に生きるのかと言う事を指して、このエペソの箇所
”戒めの律法”と書かれているのです。
神の言葉=トラーに関してではない誤解を一旦はっきり
させて置く必要があるのです。
これを、即座に”モーセのトラー”が破棄されたのだ〜と
するのは、この様な原語の理解知識欠如によるものだと
はっきり分かります。この様な手の間違いが
実はちまたに無数に在るのです。残念ながら。
ですから、聖書を注意深く学ぶ事は必須なのです。
聖書の中に書かれている言葉の意味や、その背景をくまなく調べる事は、正しく知る事は、特に教える立場の人達にとって、不可欠な事だと分かるのです。
聖書とは違う教えを解説されてしまったら、それこそ
違う場所に導かれて、迷い出てしまうからです。
神が警告した通りに。
世の中は、本当に聖書に根拠もない解説や教えで溢れています。
一瞬そうかもと思うような解説の数々ですが、その元を辿れば、
聖書の中に根拠が無いものであったり、只の自分の造り出した
解説であったり、原語の意味を知らない本当に初歩的な
間違いなのに、それに基づいて教えを展開して行くというのを
無数に見つける事が出来ます。
でも、そのズレを見つけるには、やはりちゃんとした元の
言葉の意味の知識など、その他たくさん見分ける確実な
情報がないとならない事に増々気がついて行くのです。