前回の記事の続きです。
歴史の様々な史実の中に、なぜ、いつ、どこで、どうして、誰によって”神の言葉”が改ざんされ、付けたし、削除される行為が行なわれ続けて行き、神に忠告される”姦淫”の罪=異教の神々の教えや、慣しと融合、同化、混ぜ物を取入れ、パウロが言った様に、そんなにも早く別の福音に走ってしまうのか?と言った事が起きた、その原因を見つける事が出来ます。
神の言葉の真実を知るために、神の言葉を様々に、とことん調べる、確かめる、そして歴史の史実を調べて知れば、真実に遭遇するからです。神の言葉が永遠不変だと言う真実に遭遇する。
イエシュアが例え、一年の間のいつ誕生されても、その日を誕生日として祝いなさいと言う神の仰せ=神の定めの日として付け足された事は聖書には書かれていません。
ですから、それを、あたかも後から造られた”宗教の慣し”をイスラエルの神の仰せなのだとする所から
ボタンの掛け違いが起きてしまうのです。
国の、文化の、人間の造った祝い日、祭り日と、純粋なる”神の定めの日”永遠不変、古いも終わりも無い=モアデイム=シャバット、ハギム=祭りは別々のカテゴリーに別けて考える事をしなくてはならないのです。
日本人がグレゴリオ暦の1月1日、お正月を祝うのは、神の仰せではなくて、国の文化の慣しだからと誰も疑う事が
ないでしょう。
神の仰せで無い祝い日を、神が定めた日になったのだからそうしていると、宣言されてはならない事も分かると思うのです。
その日に異教の神々の神社、仏閣に参拝する人居れど、イスラエルの神はその日を特別な日として、神の定めの日として祝いなさいと言われていない。
日本のお正月として、過ごせば良いだけです。
神がそう言っていないものを、”神が祝い日”にした、祝えと言ったのだと思い込む、そして他の人にもそう伝えてしまう所に問題があるのです。
レビ記23章、”神の定めの日”は、シャローム、完全であり
閉じられているからです。
トラーの中に書かれている神の言葉が全て完全で、欠けが無い
、永遠不変のものだからです。
そして、その後にある、”預言書”、”諸書”で、トラーの中身の解説をし、イエシュア昇天後に書かれた、最後の三分の1も、丸ごと100%永遠不変のトラーの解説、中身、よって聖書の最後の部分、イエシュア昇天後に、別の教え、新しい契約、変形、変更された教えが出現すると言う、人間の都市伝説は成り立たない事が分かるのです。
神の言葉の事実を曲げると言う、ズレを犯すから、神の言葉の原型意味が変形されて曲げられてしまい、何でも有りの世界に突入してしまう事が分かります。
神の教えに、別の何かの教えが後から付け足しされる事が無い事は、神御自身の口から宣言、解説、説明されている通りだからです。
永遠不変。付けたし、削除、一点一画変えるなかれ、人間が手を加えるなかれと。
イエシュアが誕生された後、地上で生活されている間、そして昇天されたその後も、聖書の世界、イスラエルでは、イエシュアの”誕生日”を祝うと言う事が全く無かったのです。
誕生日は、古代イスラエルでは、祝う風習が無かった事、
誕生日を祝う風習は異教の文化のものであり、
誕生日とはその位置づけで存在していたものなのだからです。
誕生日の祝いが、良い悪いと言う話ではなく、古代のイスラエルの中では、その日を祝う慣しがなかったと言う事実。
神の定めの日の変更が無い理由は、レビ記23章に在ります。
神の定めの日、教えは、後から付けたし、又は削除などないから
なのです。
ですから、聖書の中に”降誕節”なる西洋宗教が造られた時に
同時に盛り込んで造った、祭りの日を祝った記録は、記載されていないので、一つも見つけられないですし、一切、付け足しされた神の定めの日の仰せとしての、記載がされていない事実があるのです。
試しに聖書を読んで探してみると事実確認が出来ます。
”降誕節”としての祝いが行なわれた、祝われ続けた記事が、
果たして聖書の中にあるのか、無いのか。パウロ、使徒達は
一体何を教え、何を生きて、何を祝っていたのかが、ちゃんと
書いてあります。
イエシュアが生まれたであろうとする大体の時期は、
聖書から推測する事は出来ます。
多分、秋の仮庵、もしくは春の過ぎ越の季節に当たるのではないかと言われています。
でも、それがいつの日なのかはっきりは、誰も分からないと
言うのが事実です。
詳しく聖書に書かれていない事は、知らなくても良いからです。
イエシュアが地上に誕生されたいくつかの可能な時期が分かるだけです。
続く