様々な事があった1週間でした。
実生活の中での生の実習、学習、体験。
新しくされた人の命を、神の中=喜び=エデンの中にあって
生きる練習の日々。
様々な事件や、出来事や、ハードルや、困難は
神の許しの中で起こって来る事です。
雀一羽も神の許可、許しなしには地に落ちない。
それらは、神から与えられた”課題”実習、実践で
新しい人を生きる練習をする要素になっているのです。
今週一週間の生きて来た事、言動、行動、思索の全てを
振返り吟味する、修正する。
棚卸し、チェック、起動修正する日。
一週間、7日間。
シャバット=イスラエルの神の完了の業から生きていたのか
居ないのか?日々、全ての時の中で、何を思いめぐらし、
どう生きていたのか?何がずれていたのかなと
振返る時を与えられているのです。
そして、ずれたそれらを、二度と繰り返さない事です。
繰り返す場合は、学ばない、愚かな事を繰り返すだけ。
時間はどんどん過ぎて行きます。
そして、過ぎた時は取戻す事は不可能なのです。
無造作に、無意味に、大事なチャンス、時、
完了の業の命を生きる事、恵みを無駄にしない。
何を大事にガードするのか。
今日を今をどう生きるのか?
神の言葉を、生きる事に徹する事。
そんなに難しい事ではない。
誰でも簡単に出来る。
何故?完了の業があるからです。
神が取戻して下さった、本当の自分が今在り
それを生きれる様にされているからです。既に。
それを、”自分は罪人だから無理さ〜”と神の言葉に
逆らう事を言い続けるから、出来ないと思い込んでいるだけなのです。しかも、失敗重ねれば、その確信は増々深くなるでしょう。それが騙しと言うものなのです。誰の声、言葉を
聞き続けているのか?と今止まり、考える。
義人は、信仰により生きると口で唱えているでしょう。
でも、実際の所、本気で信じてはいないでしょう。
義人=神の似姿にされた人は、自分の感覚や自分を基準に見て
思いめぐらすのではなく、神の完了の業を信じがたい事を
信仰により受け取る。
信仰=神の実態、神がなされた事をそのまま捉える、受け取る
そう言う事です。それが信仰=エムナ=真理=エメット=アーメン=神のされた通りがなりますと言う、
信仰告白なのではないのでしょうか?
1コリント13章に書かれている姿は、神の似姿にされた人の
性質なのです。頑張って親切にしよう〜ではなく、あなたは親切だから、親切な行動をすると言い換える。
神のデザインを生きる事。
そんなに難しい事ではない事なのです。
神の言葉を取って食べたら、実際に生きないと
意味が無いのです。
やってみる。神が言われた通りの自分の本当の姿を
生きてみる。
それを生きない場合は、パン種の入った古い姿のままで
生きる選択をしているだけだと言う事なのです。
神に造られた人が生きる姿、そのデザインは
ちゃんと神御自身で人々に語られ、書き記されているからです。
その一点一画も変わる事の無い神の言葉の意図通りを
知って行く。
神の造られた世界を見る、観察すれば神を知る事が出来る。
神に造られた人が、神の似姿を生きていれば、人々が
神を知る事が出来る。