もし、トラーはイスラエルだけに与えられたもの、
レビ記23章はイスラエルだけが祝うものと言う
人造の教えを土台、基準にすれば、この”シャヴオート”=神の
定めの日も、同様に異邦人には、全く関係のない
祝いと言う事になります。
そして、”イスラエルの神の婚姻契約”も異邦人には
関係の無いものとなってしまいます。
イスラエルの神に属するものではないものは、全てイスラエルの神とは関係のないものとなるからです。
イエシュアを信じる人達は、イスラエルの神の只一つ=同じ
契約の中に加えられた家族と聖書で書いてあるのです。
このシャバットを始めとする”神の定めの時”の全ては、
まさに婚姻契約の中に加えられた”花嫁”としての
生きて表す印なのです。
神の家族は別々の事をして、別々のそれぞれが思い思いに
決めた日にシャバットや、祭りをするのではないのです。
一つ家族なのに、歩調が合わない様な事を
イスラエルの神はデザインしていないからです。
一緒に祝おう!一つ頭脳で。翻訳では心の一致とか
訳されていますが、頭脳です。
考える事がみなそれぞれ神の言葉からズレていては、
一致なんて有り得ないからです。
レビ記23章は、契約の中に加えられている、復活の命を
頂いている人の生きて祝う印だからです。
5人の乙女=契約の命の中に結ばれている人、
油を持って居た人達。
他の5人の乙女=油を持たなかった人達。
イエシュアが壊して下さった、イスラエルと異邦人の”隔ての壁”をうち破るには、人間の教えが廃らなければ
ならない事がはっきりしています。
人造宗教の麗しいふわふわ雲の教え、神の義の色=空
天の現実、真実を覆い隠すふわふわ雲。
宗教の教えは、空中”お掃除ロボット ルンバ”で吸い取ってもらえば良いのでしょうか。
いや、自分で気がついて、神の言葉の真実ではないものを
削除して行けば良いのです。
簡単です。
伝統とか、世界中が信じているからとか、様々な有名神学者や
教師がそう教えているからと言う、それらの人間の言い伝えを、全部リセットして、聖書だけに戻る事をすれば良いだけです。
聖書に基づき、神の言葉に基づき真実か、真実でないかだけが
大事な事なのです。
神の言葉を退けて、世界の教え、人間の教えに迎合する事が御旨なのだと本当に信じるのでしょうか?
様々な解釈があるでしょう。それぞれの理解で
どうにでも考えて良いのだと思う。
でも、まずは、”神の言葉”に何が書かれているのか?
そこをまずずれないで、きちんと知る。
適用、解釈はその後。
神の言葉の真実の中だけに留まり考えないと
ならないからです。
様々な解釈、適用とは、”神の言葉の真実”の中に留まっている
時だけに可能な事なのです。
これもあれもそれも真実、そして様々な適用が
考えられる。
でも、神の言葉から外れた只の人間の教えの中、
または、人間の考えと混ぜた教えの中では
別ものになる。
それは、神の真実とはマッチしない別ものになって
しまうのです。
ユダヤ人も、宗教の衣、雲で神の言葉を覆い隠している。
覆い隠そうなんて彼らは、思って無いです。もちろん。
誰も思っていない。真剣に神の言葉だと思ってそう話している。
でも、気が付かない間に、神の言葉からズレて行く。
神の中からズレて行く。
そして、ズレた場所から考えている人間の教えに混ぜられた神の言葉を覆ってしまうものは、廃れないとならないのです。
そして、異邦人が造り出した宗教の教えも同等です。
神の言葉、神の言われる真実だけに戻る事を、
世界がすれば良いのです。
聖書に照らし合わせて考えて行くと、人の教えと
神の言葉とに多大な誤差がある事が見えて来るのです。
またこのシャヴオートの意味、祝い方など
書いて行きたいと思います。