前回の記事に続きです。
聖書は、何の解説もなく、読者が当然下知識が有って、
知っている事が前提で書かれている内容がたくさんある事が分かります。
エデンから飛び出た後、直ぐに神の前に、コバーン=捧げものをカインとアベルがしている事が書かれていたり、ノアも箱船から出た後直ぐに、捧げものをしている事が書かれている。
その捧げものはもちろん”神の規定=きよいクリーンな
動物”コーシェル動物です。
いきなり書かれていて、何の解説、説明も書かれていません。
詰まり、エデンの中で、命の木=トラー=人の生きる全てがちゃんと口頭で神から全て語れていたのです。
しかも、エデンに居た時は、天の中に、神と直接対話、顔と顔を合わせて日々生活していたのです。何の隔ての壁もなく。
天と地の両方同時に存在する様に、人は造られていた。
詰まり人の生きる場所=シャマイム=天だった事が
書かれているのです。
幕がかかった、隔たりがある、見えない世界に飛び出て
しまった。
神の見ている通りを見えない世界。
エデンの外を飛び出した状態になった時も、
このエデンの中の事実を思い出すために、ちゃんと口頭で
トラーが彼らに教えられていたのです。
天の現実が、同時にそれが地上で肉眼で現れて見える、
詰まり、天の本体=神の実態が、地上の影=神の家=ミシュカン
を通して触れて、味わい、聞いて、見て、香り、匂いを嗅いで
五感を通しても、目に見えない神の家の実態=神の実態、神の子らとはなんたるかを、地上の”神の家”を通して教えて
いたのです。
エデンで見えていた、体験していた全て=実態を影を
通して、思い出させるためのものです。
神の家の中に置かれるもの、絵、飾り物、そして捧げられる動物、食する食べ物は、全て神の言われた通りのものです。
神の意図通り、デザイン通りのものだけ。
それら神の言われた事以外を、神の家には取込まない。
なぜでしょう?それらは、イスラエルの神の子らの姿を
表しているものだからです。
ハ バイト=神殿と訳されていますが、神の家です。
そして、私達イスラエルの神を信じる者達を、神は何と呼んでいますか?生ける”神の宮”=生けるハ バイトであると書いています。
その神の家の中に、神の言われた事以外を
取入れないと言う真実に繋がっているのです。
神の家の中には、神の言われたものだけが取入れられる。
出エジプト25:9
すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
25:40 そしてあなたが山で示された型に従い、注意してこれを造らなければならない。
神の言われた通り。神の示した型通り。それ以外は無い。
神があなたの目を、神が見ている様に見る様にしむけた
言う意味で書かれています。
翻訳だと抜けている言葉ですが、神の働きで、人が見る様に、
させられた、神が主体で人が神により見る事
発見出来る様になると言う意味。
神の言う通り。
イエシュアがそのトラーの生き様を地上で見せた通り。
天の父が動けば動く。止まれば止まる。
語れば語り、黙れば黙る。癒せば癒し、
癒さないなら癒さない。父の御旨通りを
生きる。本体と影はピッタリ同一。
目に見えない天の現実が地で現れた。
天の神の現実=肉体を取って来られたトラーである
イエシュア。そしてその子らである、神の人々は、
同等に、本体=神の実態、栄光を地で映し出す影。
あの荒野での、雲の柱と火の柱と同じです。
雲の柱が動けば動く、止まれば止まる。
ちゃんと目に見える影を通して、教えている。
全部繋がっています。
これは、本体と影の教えと同じです。
自分の思い通りではなく、全ては神の真実の中でのみの
様々な事柄が存在すると言う事なのです。
本体と影がマッチしない状態はなんでしょうか?
自分の生き様はイスラエルの神が言う通りではない
神の言葉通り、神の真実からはみ出て勝手な事をする。
本体の実態を映し出す影ではなくなり、
自分勝手に動く影は、本体には属さない
別の映像=影を映し出して生きて居ると言う事です。
これでは、イスラエルの神が誰であるのか
人には分からないと言う事になってしまうのです。
マタイ7
21.わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの 父のみこころを行なう者がはいるのです。
22.その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、 あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23.しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ど も。わたしから離れて行け。』