本体と影 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

 

この上の三つの画像は、ある人物とその人の影です。

影は本体に付いているのです。一体。

本体が無ければ影など、出来ません。

詰まり、本体と影は同等、同一人物に属する物です。

 

聖書で書かれている、神=影とは?

本体=神の現実、神。肉眼で今見る事が出来ない。

影=見えない本体の中身、実態はそっくり本体と同じと

言う意味。

本体が現れたら、同等に影が何だったのか分かると言う事。

本体=見えない、影=見える=中身、実態は同等。

過ぎ行く影ではなくて、本体が現れたら、影を見なくても

本体が見えると言う事です。

 

聖書に書いてある、影とは、本体に繋がる、

地上での本体の現実の現れと言う意味です。

 

コロサイ2:16 

だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

 

2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

 

これは、食物=神の似姿の人の生き様=神の栄光をそのまま

神の定めの時=目に見えない神の実態、福音丸ごとを、

神の定めの時=シャバット、祭りの中で、生きて実体験、

味わう。

神の言葉を生きる人は、神の本体を地上で映し出す。

生きる全てをもって。衣食住。食べる=自分の内側に神の言われる事だけを取入れる。

 

その全てが、神の言葉の真実に属する、神の言葉、神の定めの時、食べ物、ちゃんとこの教えの中で神が絵画的言語を用いながら教えているのです。

 

そして17節にある、本体=キリスト、そして影=目で見えない現実を生きて表す。神の言われる通り、神のデザインされた人間の姿そのまま、その全てを生きる人を通して、神の栄光、天の現実が地に現れる。天の祭司とは、神の言われた通りを生きる姿をもって人に伝える人達。

目に見えない本体=地上で映し出される影。

そう言う意味で聖書の中には書かれているのです。

 

そして、下は、本体とは違う事をしている影。

本体から離れて、思索、行動、言動している姿。

これが、神の言葉から外れて、ズレた生き方を

している絵です。

本体とは違う姿をしている、映し出す。

 

本体=神の言われる言葉とは、ずれた生き方をする時、

天の見えない神の姿、栄光が、地上=人の内側を通して

正確にクリアーに映し出されなくなると言う教えです。

 

私達が一般に聞く解説はこうです。

 

影=トラー=古い教えは過ぎ去るもので、

新しく出た教え=イエシュアが来られた後の別の教えと言う解説。これは全く聖書を誤解して読んでいる、プラス人間の教えが

混ぜられてしまったために出来た教えです。

あの4世紀に完成した、ローマ皇帝宗教の教えを引き継いだ、

人造の宗教の教えの影響、解釈をもろに受けているのです。

 

聖書に基づいて考えたら、影が過ぎ去ったら、本体=神も過ぎ去ったと言う意味なってしまうのです。

神が過ぎ去る?神が終る?神が消えるのでしょうか?

本体が現れたら、影だけを通して知っていた、その見えないものの実態が現れ出て肉眼でも見えると言う事です。

本体=影=実態中身は全く同等。

 

見ないで、信じる者は幸いと言われた通り。

見ない=でも実態が同じ中身を知っている。

 

ヘブライの世界では、長子が、父の実態そっくりそのままを

表しているのです。

詰まり、その人=子を見れば、親が誰だか分かる。

その人の生き様を見れば、親=アバ父=イスラエルの神が

分かると言う事なのです。

 

自分で聖書の神の言葉の真実の中だけから、考える、神の言葉の真実だけを繋げて行けば、神の言葉の意図が

はっきり見えて来ます。

人の教えを削除すれば、神の与えて下さる素晴らしい世界へ

入る扉が、どんどん開いて行く。

 

本体とは別もの、自分勝手な事をしている、本体とは違う実質、実態を映し出してしまう影。