何も変わってないことが、聖書にはっきりと書いてある。
神の言葉を曲げて、変えては、事実が何なのか分からなくなって行ってしまう。聞く人に誤解を与え、違う教えへと
誤り導いて行ってしまう。
神の言葉が、薄められて、別の教え、別の宗教の教え、人間の教えと混ぜられて、宗教の教え、人間の教えにどんどん
変身して行ってしまう。
別の教え、別の宗教、別の福音が出現、神の契約が新しく変わったと思い込んでしまっているその原因は、全て人間が神の言葉を塗り替えた、その人造宗教の教えを聞き入っているため。
神は神の言葉は永遠不変と言っているから。
神の言葉だけで十分、神の言葉だけが100%。
人間の言葉、人間の教えを神の言葉へ付けたしをしては
ならないと聖書に書かれている。
神の言葉が2000年以降、変化、改良、進化したなどと
思わされてしまっている。
神の言葉が変わると言う意識は、全くもってそれこそが、異教の神々の世界で生きて来た、異教徒の考え、意識、その影響を
もろに受けている証拠。
異教の神々はコロコロ変わるからでしょう。
だからイスラエルの神も変わると普通に思えてしまう、
思っている。
異教の神々は、言葉=契約により、人々と係わらないから。
何の責任も取らないから。
イスラエルの神は、御口から永遠に約束された事、契約を、
絶対変えない、破らない、裏切らない、変更しない。
使徒達、パウロは、神の定めの時、レビ記23章だけをずっと生きて、祝っていた。トラーだけを生きて、そしてトラーを
世界に運び、教えていた。
他の宗教の、ローマ皇帝宗教の造った教えや、祝い日を、使徒達が祝ったり教えたりした形跡など、聖書のどこにも書かれてもいない事実がある。
神の定めの時、神の仰せの意味を本当に知れば、
神の言葉や、神の定めの日が変わったなど言えなくなる。
神の言葉の事実に全てを戻す。
神の言葉は何も変わらない。神の言葉は永遠不変だから、何も変わらずに、今の時期、大麦の収穫の後の、小麦の穂を数える、
オメルを数える週として、使徒達は、イエシュアに言われた通り、過ぎ越からシャヴオートが来るまで、この時期、エルサレムに留まり続け、イスラエルの神が言われた通りの”命のサイクル”を過ごしていたのです。
過ぎ越での、子羊の購いの血を地上で見た。
イエシュアの処刑を通して体験した後、
使徒達は相当ショック状態だった事でしょう。
色々な事を、整理する、癒されて行く、回復されて行く
様々な思いめぐらしがあったはずです。
突然ラビ イェシュアが消えてしまったその喪失感もある。
色々な意味での、回復期、準備期間でもあったのです。
詰まり、新しい人にされている事実を、初穂=イエシュアの
復活の命に預かった事を祝う=大麦を捧げ、その後、小麦の穂=神の似姿にされた実態=”オメルを数える”
7週の中で、昇天、復活後、使徒達は、実態をさらに深く体験しながら、過ごしていたのです。
これから実際に何が起こるのか、使徒達もはっきり知らなかったのです。
同じ実質の別の助けが来る。その約束を待ちなさい。
詰まり、イエシュアが地上に居た時と同じ、
天の実態が地にそのまま反映するための助けを受ける必要が
使徒達にはあったからです。
神の言葉=聖書を書いて、これから世界へ向けて、
トラー=永遠不変の契約=福音を伝えるその役割をする
特別な力を得る必要があったからです。
使徒=預言者と同じ、イエシュアのされた通り、神の言葉をそっくりそのまま地上で現す、生きる、伝える。
天の現実がそのまま舞い降りて来る様な凄い事をするには、
神の意図、意志、頭脳とピッタリでなければならないから。
本体=天の現実=神が、影=使徒達を通して=地上でそっくりそのまま映し出されるその実態を受ける。
そして、それぞれが、イエシュアと同じ様な、危険な目に会い、壮絶な体験を最後にして行く事を、乗り越える力、助けが
必要でもあったのです。
そんな任務を遂行するのに、特別な助けが必要だったのです。
その準備期間が今の時だった訳です。