シャバットは、神の全ての創造の業の完了、完成の業を祝う日。
イスラエルの神がデザインされ、神の創造された人々を、
神が呼び出している日。
シンプル!複雑でも何でも無い。
アーチストが自分の作品を完成させる。
これで全て完了!何も変更、付け足しする必要がない
完璧な完成度で神の創造された世界の全てが出現、
仕上げ完了!終わり!止まった!
セーセーション。神の創造の業が終った、
やめる、とまったと書いてある。
もう付け足すもの”何一つ”残っていない状態が
現れ出た。
神の造られたデザインに相反する事をして生きれば、
欠損を感じながら生きる事になる。
それは、シャロームの姿ではないから。
人は、神の造られた全ての中に生きる様に
デザインされているから、部分取りの生き方は、
欠損と欠損を感じる様に出来ている。
神が、この世界を造られ、私達を神の似姿に型取り、造られた
その性質に相反する生き方をすれば、
人生の中、日々を生きる中で、ある一定の”欠損”
満たされてない事を、経験し続けて生きて行く。
だから人は常に探している。
自分の源は何なのか?
自分は誰なのか?
本当の自分を求めて探し求め続けている。
その方向性が的外れでも、人は腹に書かれた神の似姿=
トラーに書かれた実態を探り求めている。
それが神の似姿のDNAだから。
人は神の中に生きる様に造られている。
生ける水にどっぷり浸り、生きる状態がノーマルに
造られている。
神の中、生ける水、エデンの中から、飛び出した状態だから、欠損を感じ続ける。
渇きや、何か満たされてない〜と言う、本来の姿の
欠損を感じているから、更に更に彷徨い、探し求め続ける
事が続く。
イエシュアを信じていても、実態がずれていたら、
同じく探し求める。
自分が誰か、神の中に今存在する実態を持たないまま
生きて居るから。
だから、もっと満たされよ〜満たされたい〜どうしたら
満たされるんだろう?と言う思いが湧いて来るのでしょう。
この水を飲むものは決して渇かないと言われた事実を
内側に持てば、生ける水に浸かっているなら、同時に渇くと
言う事が起きないとイエシュアが言われたのです。
時にはエジプトで学んだように、虚しいレンガを積み上げていても、その中に”まやかし”の喜び=”代替えの喜び”である程度
偽ものにて、満足する事を学んでしまったから、
本当の欠乏感や、欠損、欠損から来る痛みをうまく
否定する方法を編み出す、痛みを感じないほど麻痺してしまって
いるかもしれない。
神のデザインを生きる様に造られた、その事実に戻る時、
私達は神の意図通り、息=霊=ルアフピッタリに、本当の命、まことの命を生きられる。
本体と影の如くに。ピッタリ一緒。
私達に与えられた”神の似姿の性質” ”神のデザインされた
美しく、トーヴの世界”を体験して生きる事が出来る。
喜び、祝おう!一緒に。神の家族一同、
この全世界の全ての創造主の中に居て、
御前で祝う。神の定めた日は、第七日目。
神がそうデザインされたから、第七日目に意味があり、
神が聖別せよと言われた通りを、本当に信じて
生きるなら、その意味を、体験、経験、発見出来る。
さあ神と共に、神の言葉に応答して、
神の呼び出された日に、特別な祝いを一緒に祝い、特別な出会いをしよう!とイスラエルの神が今日も変わらずに、
神の定めの日に人々を招き入れている。
この”シャバット”に入らないなら、
神の啓示、示して下さる業の全部に入ってないと
言う事。
フルネス シャバットのフルネス。
完全さ。満ち満ちた姿、欠けの無い姿、
神の造られた完全でトーヴ=神の意図通りのデザインの世界。
神が私達に示そう、体験させようと言う
その領域の全てに入って行く事が出来る。
神の言葉を信じて、それに応答し、実際に生きる時に
体験出来る。神の言われて居る事が、全て真実である
事を、体験する事が出来る。
イスラエルの神の言われた通り、神のデザイン通りを
生きる事が、人の本来の姿。
神の創造された世界、神の創造した人間の本当の姿。
それ以外をする時、違和感、欠損、ゆがみ、ズレを
生じるのは当然の事だと分かる。
神が言われたらそうだと、単純にその通りに受け止める。
いとも簡単、いともシンプル。
何も神の言葉に付け足す必要が無いから。
完全だから。人間の教えではなくて、人間の造り出した
様々な行事ではなくて、
イスラエルの神の言う通りが100%完璧、シャローム。
Shabbat Shalom