神の似姿の人。それが取戻されている事が、
完了の業=子羊の血により、買い戻されて、
偽の主人=の手から、罪の奴隷の鎖が完全にちぎられて、
解放されたと書いてあります。
それが、過ぎ越です。只一度だけ。
何度も以前の主人と、本物の主人の間を行ったり来たり、
売り買いされ続けるのではないのです。
そして、義とされている=神の似姿が取戻されている事実は
聖書の初めから書かれています。
”永遠の中に、全てが存在し、6日までに、この地に全ての
業が出現、完了した。”とはっきり書いてあるからです。
2000年前に、初めて、完了の業が完成出現、今までの
不完全な神の業にプラスアルファー、別ものが付け足された
のではないのです。永遠からある同じ購いを、
イエシュア、神御自身が、地上で示して下さったのです。
2000年以前の人達も、同じ購い、救いを受け取って
いたのです。
神の言葉に対して、実は真っ向からないがしろにする、
挑戦する、反する人間の教えは、こう言い続けます。
”あなたは以前の罪の奴隷のままですよ。”
”あなたは、価値ない、たいした存在ではありませんよ。”
”所詮、みんな、どろどろ!人間なんて、どの人も
ろくな存在ではない、そんなものです。
ブラックホール(こんなものは本当は存在しませんが。)
の様に、罪に吸い込まれたままの自分。”
”所詮、どうあがいても、罪人は罪人なのさ。
み〜んな罪人、だから友だち〜。”
こんな声を聞き続けては、居ませんか?
これらは、聖書に書かれている脈略を読み取らず、
神の言葉のある一部だけを取り出して、勝手に解釈して
造り出してしまった、人の独り言なのです。
ただの人の言い伝え、人間の教えです。
聖書=神の言葉の事実に照らし合わせて、
考える事をしていないからです。
だからこれが、神の言われる”人間の姿”だと思い込んで
いるのです。
では、神が言われた”あなたは聖なるもの、タミーン=染み
傷、欠けの無い姿”と言われた宣言はどうなるのですか?
神の言葉を、真っ向からどうして退けるのでしょうか?
これらの声を聞き続けて行く時、神の言葉をキャッチ出来る
脳回路の枝は、確実に萎えて消滅して行きます。
だから、何年たっても、同じ。何も変わらない。
絶望的な、以前の壊れた死んでいる自分で生きてしまう。
見る所ではなく、信仰により生きる。
自分の姿、行動、言動を基準にするのではなく、
神の完了の業だけに目を止める。
そして、罪の奴隷の鎖から切り離されている事を
本気で考え続け、信じて、生きる。
本当の自分は神の中に居る事。
その事実からだけ、生きる事を始めれば、
分って来るのです。
神の言葉が真実である事が。これが凄い所なのです。
本気で信じてないから、発見出来ないだけ。
感じなくても、信じがたくても、時々こけても、
自分の悟りに頼るなとある通り、神の言葉だけを、
常に信じて、選択して、生きる。
ズレたら、すぐ戻る。本物の姿に、神の中に軌道修正。
実は神の言葉を信じますと言いながら、全然神の言葉が
言う通りを、本気で信じてないのかも?と点検してみたら、
分かって来ます。聖書に照らし合わせて。
神の言葉に対して相当、疑いと、自分の悟りを
混ぜている事に気がつく。
自分は、神の言葉の中に書いてある通りを、
本気で信じているの?
それとも、所詮現実はね、、、、と結局、
神の言葉に水をさし、改ざんし、神の言葉を
部分的に疑い続けながら、結局は本気で
まるごとその通りを信じていない。
本当は100%、神の言葉通りをそっくりそのまま、
信じてはいないのだと、見えて来る事があります。
疑う人は、揺れる葦。神から何か頂けると
思うなかれとある通り。
二心=死んだ以前の自分と、本当の自分の頭脳を
行ったり来たりする人は、神の現実を得る事が出来ないと
書かれています。
神の言葉とは違う、自分の思い込んでいるその通りを
生きてしまったら、神の似姿の人で生きる世界を
再所有出来ないまま、グルグルグルグル同じ所に、
留まってしまう。そう言う事が起きるのです。
神の言葉を信じない場合は。