シャバットは福音の中心 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

大きな祭りの前後には、曜日に係わらず、必ずシャバットに

なります。

詰まり、ニサンの月の15日になったら、それが日曜日で

あっても、月曜日でも、火曜日であろうとも、その日を

シャバッツとして、シャバット=止まる日になります。

そして、土曜日が祭りの中に必ず来ますから、その日も

シャバットとして止まり、祭りの最後の日も、曜日に

係わらず、シャバットとして止まり祝う日になるのです。

 

神の定めの日を祝わないと言うのは、家族なのに

家族の記念日を祝わない、日本人なのに、盆暮れ正月、

記念日を祝わないと言うのと同じ事なのです。

その家族、国民に属しているのに、記念日を祝わない。

特別な祝宴に王直々に招かれているのに、辞退する。

自分はイスラエルの神の定めた祭りではなく、別の国の王が

造った別の祭りに行きますからと言う事をするのと同じです。

 

家族=神の大家族、神の国民=同じ契約に加えられた

一つの民=神の家の民なのに、イスラエルの神の定めた

神の家族の祝い日、記念日、呼び出し日に参加しないと

言う事と同じ事なのです。

 

世界が一つの神の中に、一つ家族として、神の造られた

人間の姿を生きる事に戻ると言う事が、実際に地上で

実現するためには、神の言われる言葉の中に戻る以外

その他の手段は何も無い事は、明らかです。

 

それぞれがそれぞれの好き勝手な方向に、散り散り

バラバラに散って行ったと、聖書にある通りの状態が

今です。

 

それぞれが、それぞれの造り出した教えの中で生きる。

でも、それは神の言われる一致でも、一体でも

無い事は、明らかです。神の言葉の外側は、

圏外なのです。

神の言葉の中に戻れば、隔ての壁や分裂は消滅します。

 

神の言葉=内側の外側に飛び出てそれぞれが

考えるから、セパレーション、分派、分裂、隔たりの

壁がどんどん増し加わるのです。

 

4月10日の過ぎ越までしばらくあるので、それぞれの側面から

永遠不変の神の定めた日、生きて繰り返し、

福音の中身を皆で追体験する様に、神に仰せつかった、

過ぎ越に関して考えて見たいと思っています。

 

続く