深い刈り込み 神の時、神の季節を生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

秋から春の今の時期は、神の暦の中、レッスンプランの中
では一番深いメジャーな刈り込みのシーズン。

仮庵から過ぎ越までの長い間、祭りが全く無い。
あるのは、週一度の”シャバット”の神の定めの日だけ。
 
この時期、今年、今、神が自分に対して教えようとしている、
以前の自分の中で育んだ障害物、死んだ人の中で作り上げて
来た、偽の自分の生き方、考え方、行動、思索、全て、
今神の似姿で生きる事を妨害する、その包皮、肉の目から
見て生きて育んで来た脳回路の枝を、
最も深く刈り込みされる時期。

神の定めの時=呼び出しの日=モアデイム=神のデザインの
サイクル、暦を、よく理解していなかった以前の自分は、
まさか〜そんなばかな〜と、いつも同じさ〜、何も変わらない
神は常に何かを教えているんだから〜と鼻先で笑っていた。
まるで”サライ”のせせら笑いの様に。
 
自然界からも学べる。朝お日様が出て、目覚めて、
日没暗くなり、眠る。その時間を無視して、時の
流れに反して生きたら、体が変と違和感、悲鳴あげるから、
分かるでしょう。それと、全く同じ。
 
神のデザインの”全て”を生きないから、神のデザインの
大事な事を無視して生きたら、分からない。
意味を知らないから、体験出来ないから、分からなかった
だけだったと言う事。
生きないなら、やってみないなら、分かる訳ない。
横目で眺めて、手に取り、実際に口に入れて味わい
食べなくては、分かる訳ないのと同じ。
神の言われた通りの事を、言われた”定めの時”に継続して
生きてみると、本当に分かる。何が欠けていたのか。

自分が自分の人生の、神の暦の中の今なんじ?なんどき?が
分かって無いないなら、神の教え様としている事を、
神のデザインした暦、定めの時の中で、耳を澄まして
聞く事がないのなら、聞き逃し、本当に素通りしてしまう。
神は神の時に沿って、何かを教える、されるから。

神は常に常に語り続けていて、その年の、その時期の、
その時々のレッスンプランを、ちゃんと用意して
下さっている。

神が私の命の、人生のデザイナーだから。
この時期、どんな事を教えようとしているのか、
私がどんな理解の場所に居て、それを受け取る事が出来るのか、
何が障害物で、その雑草を根こそぎ取り除こうとして
下さっているのか、ちゃんと分かっているから。

人生の今なんじ?今何どき?とは、神の暦の中で、
生きる事を知る、そして実際に生きる時にのみだけ、
分かる事。

自分の暦、自分の計画、カレンダーではなくて、
神の造られた世界の暦、神のデザイン通りを生きる時に、
初めて目が扉が開かれる世界だから。
神がそう造られたから。

神の暦=神の呼び出し日、神の定めた時に神とピッタリ
本体と影の如くピッタリ一つ頭脳で主と共に主の言われる
言葉の中で生きる事。

イエシュアの様に。父=本体=影=地上でのイエシュア=
トラー=人間の本当の姿丸ごとを見せてくださった。

父が動いたら、動く。父が止まったら止まる。
父が語ったら語る。父が黙ったら黙る。
父が癒すのなら、癒す。
父の意図、御旨の通り、影を生きる。
天の栄光=神の目に見えない実態を、影=地に
そっくり映し出す。目に見えない本体と一つ=
シルエット、地上に反映する影。

雲と火の柱。荒野を付いて来た生ける水を提供した”岩”。
荒野でも、そっくりそのまま同じ福音丸ごとを教えられて
居たでしょう。
出エジプトして、神の家の婚姻関係に入り、契約が文字で
書かれて、揺るがないものとして与えられて、
神が共に居られて、人の間に住んで、肉眼で臨在が見えて、
全てを100%神からのみ提供されて、
幕屋=神の家の中で、イエシュア丸ごと=福音の丸ごとを、
実際の体験を通して、同じ様に教えられていたでしょう。
彼らの方が、よっぽどイエシュア=福音の醍醐味、奥義を
知っていた、体験していたのです。
福音は太古、永遠から全く同じ。

影=目に見えない本体を地上でそっくり、
そのまま映し出すのが影と言う意味。

影は消えてなくなるなんて、嘘。

本体が消える?神は消えないでしょう。
本体が消えないなら、影は消えないでしょう。
影が消える=本体も消える時。やってみれば分かるでしょう。
影遊びを。私が聞いて来た教えは、影=ただの仮のもの。
そんな意味で、聖書には書かれてないから、誤解が誤解を
生んで行く。影=肉眼で見えない本体の実質と同等。
 
本体が現れたら、影で見ていた実態、中身丸ごとを
肉眼で見ると言う事。
それまでは、目で見えなくても信じる者は幸いと言われた
通り、影を通して、目に見えなくても、同じ実態=本体
神を体験し続けて行けると言う事。
 
続く