神の顔=真実を覆い隠す教えは氾濫している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書だけを知っていれば、騙される事なんて
無いだろう〜!
 
そうだとも言えるでしょう。
 
でも、深い落とし穴がこの世には、
たくさんある事に気がつかないと、ならないのです。
 
それは、聖書の他に、この世界の様々な情報、教えが
氾濫して、蔓延している。それらに常に触れている。
その中に、神の真実を覆い隠す教えがしっかりたくさん
混ざっているからです。
 
ノアの時代みたいに、ノアの言うことを、馬鹿にして誰も
聞かなかった。全ての人が、そんな馬鹿なこと起こる
訳ないさ、ノアって本当アホね、馬鹿だね〜と思っていた
時代があった事、考えていました。しかも、ノアの家族は
ノアの事を本当に信じていたのかな。
そうだとすると、隣り近所の人にも変人と家族ぐるみで
思われていたのか。
 
たくさんの偽情報が世間にはある。
その騙しは、自分の生き方に余り関係ない事が
あるかも知れない。でも、それで真実を曲解したり、
違う事を信じ込まされてしまう。
まあ、外の郵便ポストが今日から白くなりました〜と
言う様な嘘=エープリルフール レベルの嘘なら
どっちでも関係無い。何も害もない。
うわ〜どっきりカメラねと言う笑い話になる。
 
でも、神の真実を覆う情報は、本当に弊害がある。
真実を発見、神との出会いの扉を閉ざしてしまうから。
 
真実や嘘をどこかで混ぜて語られても
見分けがつかない事が、世の中たくさんあるからです。
 
でも、神が言われた通りを考えてみると、
聖書に書いてある事を、点と点を繋げてみれば、
分って来る事がある。
 
辻褄合わないではないか?何か変ではないか?と
必ず気がつける。
 
ヘブライ聖書を知りませんでしたから、神が居るなんて
知る余地もありませんでしたと言えないとある。
 
どうしてでしょう。
神の造られた世界を見たら、神が存在する事が
はっきり分かると神が言われる通りだからです。
観察したら分かると言う事。
 
だとすると、神の造られた世界を、変形して解説する事も、
然り、神の真実を覆い隠す要因になると、
はっきり分かります。
 
本当に集団で信じ込めば、変じゃない?と思う事柄でも
疑問にさえ浮かばないと言う事なのです。
本当に変なのに。考え始めれば変だと分かる。
裸の王様が裸だから裸に見えると普通に分かるのに。
 
騙される訳なんかないと、私も思っていた事があります。
 
でも、どれだけ偽情報、これは意図的か意図的ではないか
関係なく、それを鵜呑みに聞いて真実だと決め込む事、
プラス、大衆が信じているから当然だと思う事の中に
実は、全然神の真実ではない事が含まれている事に
気がつきます。
しかも、当たり前でしょうと言う、実は事実ではない、
その事柄さえも、疑問に思わないから、
真実への発見の戸口を開けない。
 
多くの人が信じている、しかも証拠も何もない。
その一つは、進化論だと思います。
証拠だとするその”進化形の生物、動物は実は作り物”なのに。
 
集団で騙されるとそう思い込むから不思議です。
証明、証拠、事実がどこにも無いのにそうだと思う。
しかも、進化論打ち出した本人も、実は証明出来ないと
最後は認めて、完全に仮説だとしているのに。
 
でも、その教えは一人歩きしてしまって今では
世界の殆どが疑いなく信じている。
神が居るとか、神がこの世界を造ったと言う方が
狂っている、変な人と思われてしまう。
 
イスラエルの神を信じる人なら、進化論など普通信じない
でしょうと思うのが普通です。でも神を信じながら進化論を
信じている人達も、実は居るのです。少数でしょうけれど。
 
でも、分かる事があります。
神の真実なら、神の言葉とどこかでちゃんとマッチしている。
神の言葉に、相反した教えにならない。
事実が、神の言葉とピッタリマッチして行く。
 
詰まり、聖書は科学の書の様には書かれていませんが、
神は真実を語っている。
だから、DNAに関して、神が科学の書の様には語られては
居ないけれど、人を”神の似姿”に造られたと書かれている。
 
でも、神は人間の様な体を持っては居ない。神は人間では
無いし、人間は神ではない。
でも、性質=神の似姿=エッセンスは、神そっくり。
神ではないけれど、私達が神の意図通りの姿を
生きれば、神の栄光をそのまま地で反映する”創造物”と
言う事なのです。
 
英語圏の情報は膨大にあります。本当にリサーチする、
研究学習する上では、まことにありがたい原語
ツール、情報がたくさんあるからです。
調べる、追求する、様々な情報を比べる、真実の点と
点を繋げて行くには、正確な情報が必要だからです。
 
一方的な教えしか聞かされていない場合、私達は、
その一方的な教えを、時には疑いもせずに、
あたかも真実だと信じ込みます。
 
しかも、その証拠も、実験結果も、または観察結果の、
何もかも、証明出来ない事柄に対してでも、あたかもそれが
事実である様に語られてしまい、世間に浸透している事が
あります。
 
続く