神の言葉は全部繋がっています。同じテーマで、同じ内容
永遠不変で、聖書の中どの箇所も、神の言葉の中は、互いに
相反し、矛盾、変化、変更、敵対し合う事なく、ぴったり
見事に一致、一貫しています。どの時代もどの人種にも
同じ”神の言葉”が書かれている。
イスラエルの神の御性質と全く同じ、”永遠不変の性質”
”エハッド”=一つ以上で全く一つの、丸ごと一つの性質、
そして永遠不変のイスラエルの神の性質と全く一致している。
神の言葉は、バラバラなそれぞれの言葉ではなく、一つ。
そして創世記から黙示録まで全て丸ごとで一つの書。
神の言葉は、全部が繋がっている。ジグゾーパズルのピース
の様に全部で一つ絵柄になる。切り離せない。
そして、その土台は”最初の五書”モーセの五書=イスラエル
の神の人類へ対しての”ブリット”=婚姻契約が土台、柱。
エハッドの神に、エハッド=一体として造られた
”神の似姿”の人が、完了の業、神の業により、完全に
取戻されている事、この世にありながら
”神の中”元居た場所=エデン=喜びの中に今戻っている、
存在している事がテーマの中心。
そして、同じテーマ、同じ福音、同じ救い購い、全人類へ
同じ事が語られている。なぜなら、”人”は神の中に、永遠の
時に、一体、ひとつ体=一つ家族として、始めからデザイン、
創造されて造られているから。
神=言葉=言葉の神と書かれている通り。
神=言葉=神の御性質そのものだからです。
私達が聞き慣れている、定番の言葉=”聖なる”と言う言葉は
翻訳用語です。
私達の想像する、聖なるものと言うのは、ヘブライ語の聖書
の中に書かれている原語、そしてコンセプトとは少し異なる
ものである事、原語に戻ると分かります。
聖なると言う言葉は、ヘブライ語でקָדַשׁ=”カドーシュ”と
書かれています。
古代ヘブライ近辺の世界には、様々な人達が住んでいた。
異教の神々に仕える人達も居た。
町に住んで、”異教の神々の神殿”近くに住んで、
生活の全てを”その異教の神々”に捧げるライフスタイル。
その神殿で働く目的に沿って生きる生活をしていた。
そしてその”異教の神々”に仕える人達=詰まり神殿祭司達が
いたのです。
異教の神々に仕える祭司と、イスラエルの神に仕える祭司と
同じ言葉が使われています。
その祭司達をקְדֹשִׁים=カドシーム=聖なるものと呼んでいる。
それぞれの”神”に仕える人達=その神に生きる目的のために
”分たれた人”と言う意味です。それが”聖なる”と言う本当の
意味です。
祭司達=カドシーム。彼らの生き方、ライフスタイル、
そして、周りの世界とどう関わり、その”分たれた人々”が
どう生きるのか?
エロヒーム=神これも異教の神々とイスラエルの神
両方に使われているジェネリックネームです。
どの神に仕えるか。どの神との関係に入り、その特別な
関係のために分たれた人達となるのか?その生き様は、
周りの世界とは一線を引いている。境界線がある。
分たれている。
神の上に分たれている。“割礼”の印も、この分たれている、
境界線が引かれていると言う意味。
”イスラエルの神”の命に加えられた存在である事の、
目でみる日々のリマインダー=印でもあるのです。
死んだ人=イエシュアと共に永遠から葬られている
人は、切り離されている。
包皮はくっついて居る様だけれど、境界線=実は完全に
切り離されている。本当の自分=神の似姿の人は
取戻されている事実=完了の業で取戻されている。
だから、包皮=死んだ自分で”本当の自分”を覆う生き方を
選択しないリマインダー。
これは、”完全無条件譲渡契約”=義とされている=神の似姿
の人である事を、日々思い出すリマインダーです。
生まれて8日目に自分の選択、意志によらず”一方的”に
親の選択により、生まれて来た家=イスラエルの神に
仕える人々、契約の中に加えられた人々の家に生まれた
印として知らない間に、親の選択で付けられているからです。
生まれた事、割礼を受けている事、全てどれも自分で選択して
はいない=”完全無条件譲渡”=義とされている、無条件に
与えられたいる事実である事の印。目で見る日々の
リマインダー=自分は誰か?
世界とは境界線=割礼が敷かれている。
神の目的のために分たれる=カドーシュ=聖なる、
神の目的のために生きる人達=カドシーム=聖なるもの
と書かれている。
ちょっと翻訳のイメージとは異なります。
オリジナルに戻って、考えを修正して行く。
続く