エデンの園。
人は永遠の中に、神の中に造られた。
世界の全ては、”神=言葉”により造られた。
その被造物の中で、私達人間は、神の似姿=DNAのプリント
を頂いている存在。
人は、”神=言葉により綴られて、造られて、デザイン
されている。”
神の言葉だけを食べて生きる様に、神の言われた通りの
言葉=真理の中=エデン=喜びの中にだけ存在する
ものとして、造られた。
だから、神のデザインに反して生きると、神の言われる事に
敵対、反対、Againstすると、害、破損、欠損、
故障、破壊、破滅、いのちを損ないながら生きる事になる。
当然の事。でも、何故神の言われる事に違和感感じる、
反発感じるのか?その大元を考える。
地を這う動物がささやいた教えに耳を傾けたから。
神の言われる事以外、何かあるのかも〜。これだけなんて
有り得ないよねと言う、別の目が開かれた、神の内側、
言葉の外側に飛び出た思索で考えるから。
普通に考えても分かる。
車はオレンジジュースで走らない。
ガソリンで走る。全ての部品がデザイン通り、取り扱われ
作動させるなら、デザイン通りに動く。何も難しくない。
神のデザインの被造物も同じ。神のデザイン通りに生きる。
それと違う事したら、壊れる。
何も難しくない。でも神の言葉は、”奥が深い”。
始めの始めの忠告が、食べ物。食べ方。
神の言われた通りだけ。その中だけが、本当の自由、
本当の安全、本当の命、本当の喜び、本当の自分が存在
出来る。エデン=神の中。
エデン=喜び=神の中で、神の言われた事をガードする。
それが本当の礼拝=アボダー。人間の仕事。それから
ズレたらまことの命は確実に奪われる、失う、死ぬ。
喜びが無くなる。だから、神がそう忠告して下さった。
人の命を神のデザイン通り保ち、”エデン”=喜び=神の
中で、生き生き生きるため。私達はネフィッシュ ハヤ
命溢れる、生き生き生きるものと神がそう呼んだ存在だから。
神の創造された世界を、神の言われる言葉の中で、
守って安全に生きていく。それが神のデザインされた世界。
神の言葉を曲げると言う点では、全く同じ事を、今も主張
している。
神の言葉は部分的に終わり。特に呪いの部分、律法の部分の
最初の三分2は殆ど参考程度なんて、神が本当にそう
言われたの?と逆に自分に問うてみたら分かる。
聖書に戻り、神の言葉に戻り確認すれば、事実は永遠に
そこにはっきり書いてあるから分かる。
肉の目の包皮が自分の思索、頭脳を覆わなければ、
書いてある通りを信じられれば、見えて来る。
伝統的な、ちまたで聞かれる人の教え、自分の教えられて
来た教え=神学に照らし合わせて考えない、神の言葉だけに
戻れり、確認、確かめれば、ちゃんと神の言葉の中に、
永遠不変の真実、永遠不変の神の言葉が書いてあるから、
見えて来る。
考えてみてみる。
なぜ神がそんな事を言われるのか?
神がそう言ったらそうだと何故認めたくない自分が
居るのか?
神の言葉が変わったとする教えから考えると、神の言葉は
どの様にでも、崩れて行く。ブロック崩しのゲームの様に。
神の家の壁=神の宮=自分自身に
穴が空いて、何でも入り込んでしまう。危険。
Protective guard=鎧兜を脱いだまま戦いに出るのと同じ事。
神がそう言われたらそうなのだと、思えない、考えも
付かない、それが自分の中にズレなのです。
的はずれ。ハター。的を当てるとは、”トラー”と言う言葉。
的の中心=神の言葉=意図通りから外れず、的の中心の円の
中を当てる事をトラーと言う。
詰まり、神の意図通りの”囲い”の中=言葉の中に存在し、
生きる時、私達は、神のデザイン通りを初めて生きれる。
続く