神のデザインに反したら、損なわれる、失われる、破損、破壊、欠損、まことの命を失いながら生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エデンの園。

人は永遠の中に、神の中に造られた。

世界の全ては、”神=言葉”により造られた。

その被造物の中で、私達人間は、神の似姿=DNAのプリント

を頂いている存在。

 

人は、”神=言葉により綴られて、造られて、デザイン

されている。”

神の言葉だけを食べて生きる様に、神の言われた通りの

言葉=真理の中=エデン=喜びの中にだけ存在する

ものとして、造られた。

 

だから、神のデザインに反して生きると、神の言われる事に

敵対、反対、Againstすると、害、破損、欠損、

故障、破壊、破滅、いのちを損ないながら生きる事になる。

当然の事。でも、何故神の言われる事に違和感感じる、

反発感じるのか?その大元を考える。

 

地を這う動物がささやいた教えに耳を傾けたから。

神の言われる事以外、何かあるのかも〜。これだけなんて

有り得ないよねと言う、別の目が開かれた、神の内側、

言葉の外側に飛び出た思索で考えるから。

 

普通に考えても分かる。

車はオレンジジュースで走らない。

ガソリンで走る。全ての部品がデザイン通り、取り扱われ

作動させるなら、デザイン通りに動く。何も難しくない。

 

神のデザインの被造物も同じ。神のデザイン通りに生きる。

それと違う事したら、壊れる。

 

何も難しくない。でも神の言葉は、”奥が深い”。

 

始めの始めの忠告が、食べ物。食べ方。

神の言われた通りだけ。その中だけが、本当の自由、

本当の安全、本当の命、本当の喜び、本当の自分が存在

出来る。エデン=神の中。

 

エデン=喜び=神の中で、神の言われた事をガードする。

それが本当の礼拝=アボダー。人間の仕事。それから

ズレたらまことの命は確実に奪われる、失う、死ぬ。

喜びが無くなる。だから、神がそう忠告して下さった。

 

人の命を神のデザイン通り保ち、”エデン”=喜び=神の

中で、生き生き生きるため。私達はネフィッシュ ハヤ

命溢れる、生き生き生きるものと神がそう呼んだ存在だから。

 

神の創造された世界を、神の言われる言葉の中で、

守って安全に生きていく。それが神のデザインされた世界。

 

神の言葉を曲げると言う点では、全く同じ事を、今も主張

している。

神の言葉は部分的に終わり。特に呪いの部分、律法の部分の

最初の三分2は殆ど参考程度なんて、神が本当にそう

言われたの?と逆に自分に問うてみたら分かる。

 

聖書に戻り、神の言葉に戻り確認すれば、事実は永遠に

そこにはっきり書いてあるから分かる。

肉の目の包皮が自分の思索、頭脳を覆わなければ、

書いてある通りを信じられれば、見えて来る。

 

伝統的な、ちまたで聞かれる人の教え、自分の教えられて

来た教え=神学に照らし合わせて考えない、神の言葉だけに

戻れり、確認、確かめれば、ちゃんと神の言葉の中に、

永遠不変の真実、永遠不変の神の言葉が書いてあるから、

見えて来る。

 

考えてみてみる。

なぜ神がそんな事を言われるのか?

神がそう言ったらそうだと何故認めたくない自分が

居るのか?

神の言葉が変わったとする教えから考えると、神の言葉は

どの様にでも、崩れて行く。ブロック崩しのゲームの様に。

 

神の家の壁=神の宮=自分自身に

穴が空いて、何でも入り込んでしまう。危険。

Protective guard=鎧兜を脱いだまま戦いに出るのと同じ事。

 

神がそう言われたらそうなのだと、思えない、考えも

付かない、それが自分の中にズレなのです。

的はずれ。ハター。的を当てるとは、”トラー”と言う言葉。

的の中心=神の言葉=意図通りから外れず、的の中心の円の

中を当てる事をトラーと言う。

詰まり、神の意図通りの”囲い”の中=言葉の中に存在し、

生きる時、私達は、神のデザイン通りを初めて生きれる。

 

続く